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貢献する相手を間違うと心が疲弊してしまう

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他人に貢献する、なんか、とっても素晴らしいことのように思えるんだけど……。 そして、見返りを求めないで他人に貢献すると、幸福感を得られるとよく言われている。 もしかすると、人間関係を良好にするためには、他人に貢献することが不可欠なものなのかもしれない……。 しかし、自分の人生経験を振り返ると、必ずしもそうではないと感じている。 この世で最も貢献すべきは自分自身であり、まずは自分に貢献するのが最優先である。 その後に、他人に貢献したいという思いが心の中から溢れ出たとき、そして見返りなんて微塵も考えてないとき、それが最善の行動になると思う。 ただし、他人に貢献する際は余計なお世話にならないように注意が必要である。 見返りを期待しないで貢献する 無理、自分はそんな人間じゃなかった……。 今までの経験を思い返してみると、最初は見返りなんて微塵も期待しないで貢献はできるのだが、その後に相手の言動や態度によって不愉快にさせられたりすると、「あの時やってあげたのに」という思いが貸しのような感じで出てきてしまう。 見返りというのはなにも、やってあげたことに対して相応のものでなくて、最低限こちらを不快にしてほしくない、フラットな状態でいたいというのが含まれていることが時間の経過とともに分かってきた。 貢献している時点では見返りを求めていないのに、後に相手から不快にさせられたり、腹が立つ言動があったりすると、その相手に貢献したときのことを思い出してしまい「恩を仇で返す人間だ」と思ったりして、貢献なんてするんじゃなかったと思うようになってくる。 こういうふうになるということは、貢献した後に相手からどんなに不快なことをされても心を乱さず、さらに貢献していける人間が幸福になれるということなのかもしれないが……。 そんな人間なんているのかって感じだけど、世の中広いから、もしかしたらいるかもしれない。 自分はまだまだ心の狭い人間なのかもしれない……。 自分にプラスになる人間には率先して貢献する これが理想であると思う。 こちらを快い状態にしてくれる人間に対しては率先して貢献するようにしている。 すると相手の返報性の法則も働いて相手も貢献してくるので、

儲け話しには乗らないように注意していること

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「楽して儲かる」……えっ、そんな仕事なんてこの世にあるのかな?。 「誰でもできる」「簡単」「短時間で高収入」……なんか、その仕事のことが気になってきた。 挙句の果てに「初期費用無し」……なんて言われたら、いてもたってもいられなくなってくる。 ネット等でそういう広告を見かけると「世の中には他人に儲けさせてくれる親切な人間もいるんだ~」と嬉しく感じてしまう。 だけど……「絶対に損はしない」とかって言われると、なんかその仕事の内容が怪しく感じてきてしまう。 お金に関することでリスクが無いなんてことは有り得ないので、絶対に儲かるなんて言われたらアウトだと判断するようにしている。 ていうか、儲け話を他人に進める時点でアウトのような気がするんだけど……。 なぜ他人に儲け話を進めるんだろう……。 調べるのもめんどくさいので発信者の立場になって考えてみることにする。 自分だったら儲け話を他人には話さないと思っているけど……。 思ってはいるけど、お金がたくさん入ってきたら気持ちが大きくなってしまい、自慢したくて居ても立っても居られなくなり、ついうっかり話してしまうかもしれない。 もう誰でもいいから凄いって言ってもらいたくてしょうがない状態、承認欲求の塊になる。 もしくは、いっしょにお金に困らない人生を歩むため、といって勧めてしまうかも。 しかしこれは自分が知っていて尚且つ信用できて信頼できる人間に対してのみのことである。 なので、ネットとかでよく見かける儲け話は、単なる自慢ではないし、見知らぬ人間にお金儲けをさせるだけとも思えない。 ということは、発信者が儲かるような「仕組み」みたいなものが完成しているからだと思う。 それが何なのかは分からないが、もしかしてフランチャイズのような仕組みかもしれない。 フランチャイズとはコンビニエンスストアなどで採用されている仕組みのことで、セブンイレブンの看板を掲げて店舗を運営するならば本社に毎月、高額なロイヤリティという権利を使用する対価を支払わなくてはならない。 対価を支払ったとして、それでも儲かっていればいいのだが、お客の数が限られている場合、同業者が増えれば増えるほど利益が分散してしまう。 例えば、

生きる意味ってなんなんだろう

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生きる意味を見出そうとするのは、地球上の生命体の中でも人間だけかもしれない。 自分なりに生きる意味を考え始めると、その答えはあるようにもないように感じられる。 これは非常に曖昧でとらえどころのないものだ。 長い間この問題に悩んでいると、なぜこんなにも面倒な思考を持つ生物に生まれてしまったのかと思ってしまう。 この世に生を受けた以上、一生懸命に生き、寿命がきたら死ぬ、それだけで充分な気もする……。 しかし、人間として生まれた以上、何か生きる意味のようなものを見つけて、たったいちどしかない、かけがえのない人生を全力で生き抜いていくしかない。 時にはめんどうだと思うこともあるが、やる気を出して生きる意味を見出さなくてはならない、とは言っても……何も思いつかないんだけど。 なんとなくではあるが、「何のために生きるのか」が生きる意味のような気がする。 それがないと生きていけないこと、それが支えになるようなこと、だと思う。 人によってその意味は異なるが、例えば家族のため、お金のため、社会のためなど、様々なことが考えられる。 それらに上手く関連づけることできれば、それが生きる意味である。 もし、関連づけできなかった場合、生きる意味なんてないことになるのか?……。 そんな時は、自分のため、自身の体のために生きる、それでいいと思う。 自らの肉体は生きる意味がなくても一生懸命に生きようとしているからである。 新陳代謝・免疫機能・体温調節など、これらが正常に働いているうちは生きなくてはならない。 しかし、人間は自らが作り上げた虚構に惑わされ、追い詰められて自らの命を絶ってしまうことがある。 その瞬間まで、自身の体は生きようとしているのに……なんか、もったいないような気がする。 人間は他人に対して、「あの人間はこうあるべき」と勝手に思い込み。人間関係を面倒なものにしている。 もしかすると、自らの命を絶つ人間は、他人からこう思われているから自身はこうあるべき、と勝手に思い込んでいるのだろうか?、そんなことはないと思いたいけど……。 本来、人間を含む全生命体に生きる意味なんてないと思う。

大好きなもち米に含まれていない成分

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スポンサーリンク もち米とは、おもちの原料になるお米のこと。 おもちはそのまま食べても美味しいが、しょうゆもち、なっとうもち、のりもち、づんだもち、くさもちになるとさらに美味しい。 おぞうにも大好きだが、やっぱり味噌ラーメンにおもちを入れるのが最高だと感じる、あのお雑煮のようにドロドロになってから麺に絡みついた時の食感が何ともいえない。 その他に大好きなのは、おこわ、おはぎ、おだんごなど、もち米とうるち米とを混ぜたものも大好きである。 うるち米とは普段の食事で食べるお米のこと。 精米した状態で両方のお米を見比べたときに、昔から疑問に思っていたことがある お米を炊く前のうるち米は半透明なのに、なぜもち米は最初から白色なのかと……。 白色ということは、あのもちもちした粘りのある食感は何か特別な栄養素が含まれているのかもしれない、と長い間そう思っていた。 長年にわたり疑問に感じていたことを払拭するために、いったい何が含まれているからもち米はあんなにおいしいのか調べてみることにした。 なんと逆だった、うるち米に含まれている栄養素がもち米にはないから、らしい……。 お米にはアミロペクチンとアミロースというデンプンが含まれており、うるち米はだいたい80パーセントくらいがアミロペクチン、残り20パーセントくらいがアミロースで成り立っているらしい。 しかし、もち米はアミロースがほとんど含まれず、ほとんどがアミロペクチンというデンプンで成り立っているという。 なんと、たった20パーセントのアミロースというデンプンがないだけで、あんなに食感が変わるなんて、あっ色もだった。 なんか、また、長年の思い込みが覆されてしまった。 基本となるうるち米と、あんなに味や食感が違うのだから何か特別な栄養素が含まれていると思いこんでいたが、逆にうるち米に含まれていた栄養素がないから、だとは思わなかった。 逆にもち米が主食で、たまにうるち米を食べるのだったら、アミロースが含まれているから半透明であの味と食感だ、となっているのかもしれない。 いつも注意していることは物事をひとつの方向から見ないこと、つねに何故なんだろう?とあらゆることがらを疑ってみる。 そうすれば、決めつけ

ものの見方を変えて考え方を変えてみる

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ものの見方を変えてみたら……なんとなくだけど腹の立つ頻度・悩み・ストレスなどが減少したような感じがする。 今まで否定的だったことを肯定的に捉えるよう努めてみたら……いままで見えなかった新しい世界が見えてきたような、そんな感じがする。 それには柔軟な考え方と諦めるということに重点を置いた。 最初はなかなか受け入れられず、考え方を変えるのにけっこう苦労したような気もするが、その努力は価値のあるものになったと思う。 人生 生まれてきたからには幸福にならなければならない、幸福であるべきだ、という「べき思考」に囚われていた。 しかし、最高の幸福でも、最低の不幸でも、死んだら終わりだと思ったときに何の意味もないことに気づいてしまった。 死んだ後に振り返れることができれば、意味があるかもしれないけど……。 しかし、現時点では死後の世界の話で納得できる答えは見つかっていない。 なので、どんな人生だとしても今のこの瞬間を大切に生きることが最善だと思う。 今を感じるために瞑想やマインドフルネスに挑戦しているが、まだその域には達していない。 達したときにはさらに考え方が変わっていると思う。 仕事 誰かがめんどくさいと思っている仕事を、自分が代わりにやってあげていることで報酬を貰っている、と考えてみた。 なので、自分がめんどくさいと思うことで、誰かが代わりにやってくれている仕事には感謝の気持ちとしてお金を払う。 こうやって世の中がうまく回っていると、無理やり思い込ませたふしがあるのは否めない。 なので、どんな仕事にも意味があると思う。 人間関係 ものの見方を変えた程度ではどうすることもできないことのひとつ。 この世に人間がいて自らが人間だとすると人間関係の悩みを解決するのは難しい。 ていうか、欲がなければもしかして、とも思うがそれじゃあ人間じゃなくなってしまう気もする。 諦めて無人島に行ってひとりきりで生きていく、今の便利な生活を捨ててまで行く気にはなれないが、もしかして何か気付きがあるかもしれない……。 あっ、ひとりだから人間関係で悩むことなんてないんだ。 時間 時間は概念なので実際には存在しないらしい。 実際には存在し

やる気を出していろんな事に挑戦してみる

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子供の頃は、新しいことに対する興奮や楽しさを日常的に感じていて、何をするにも新鮮な気分でいられたような気がする。 でも大人になると、そんな感覚が次第に薄れていき、何もかもが新鮮じゃなくなり、心の奥底から楽しめるものも少なくなってくる。 なぜなんだろう……。 楽しい気はするんだけど、子供の頃ほど新鮮な気分を味わえないし、心から楽しめるのも減ってしまった。 大人になってからも、なんとなく楽しいとは感じるんだけど、その偽りのような楽しさしか感じないのには何か理由があるんだろうか?……。 いろんな経験を積んでしまって何となく予測や予想がついてしまって驚きがなくなってしまったのか、それとも……。 何となく分かるのは、純粋さがなくなってきているから。 悪く言うと心が汚れてしまった、考え方が雲ってきた、感情が鈍ってきたから、だと思う。 なんか、人間らしくなったから、と言えばそんな感じがするけど。 しかし、それでも、いろんなことを分かったふりして惰性で人生を生きていくのはもったいない、ていうか人生がとてつもなくつまらないものになっていくような気がする。 もうなっているので何とかしないと……。 このままだと楽しいような楽しくないような曖昧な感じで人生が終わってしまうような気がする。 そして思ったのが、人生がつまらないと感じてきたら、新しい体験や未知の世界にふれる機会を増やしていくしかないということ。 子供時代には到底及ばないが新鮮な感じを少しでも体験する方法は挑戦しかない。 挑戦といってもいきなりバンジージャンプとかじゃなくて、小さいことでいつもと違うことから始める。 例えば、日用品ならいつもと違うものを購入して試してみたり、服ならいつもと違うものを購入して着てみたり、食べ物の新製品を見つけたら普段食さないものでもとりあえずは食べてみたり、時間とお金があるなら見知らね土地に旅行に出かけるのもいい。 最初は不安に感じたりめんどくさく感じるかもしれないが、毎日同じことを繰り返すよりも、いろんなことに挑戦して少しでも新鮮味を味わっていけば、自身の成長を促すことができるかもしれない。 そうやってつまらなくなった人生を少しでも楽しいに変えていき、惰性じゃない人生を歩んで

価値のない虚構に価値を与える

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道端に転がっている石ころに、「持っているだけで幸福が訪れるスーパーストーン」というキャッチフレーズを付けてみる。 そして、売り出すときの値段を100円くらいにして販売する。 もしかしてと思って買ってくれた人間が望んでいた幸福が訪れなかったとしても「100円だからしょうがない」と諦めてくれると思う。 しかし、もしこれを1万円で売ったとしたら……望んでいた幸福が訪れなかった場合は詐欺で訴えられてしまうはずである。 価格が高いほど物に対する価値観が変わることを考えると、人間は価格によって価値を感じる傾向ががあるように感じる。 「そんなもの買ったりしない」「そんなものには自分は騙されない」と思うかもしれないが、世の中には価値のない虚構に対して、誰かが勝手に価値を与えたものに、惜しみなくお金を払っている人間がたくさんいるのも事実である。 価値を植え付けられる 物心がつくまでの子供には価値という概念は存在しないと思う。 もし、本能で感じているとすれば価値があるのは母親か、もしくは世話をしてくれる人間くらいだろうか?……。 そして、物心がついた後には、子供時代に見たり聞いたり触れたりして影響を受けたものや、成長過程で周りにいた人間に価値観を植え付けられたりして、価値のないものに価値を見出していくと思う。 だから人間の価値観はそれぞれ違うものになってしまう。 価値の決め方 やっぱり造るのに時間がかからないものや劣化しやすいもの、どこにでもあるものや誰にでもできることは価値が低く設定されるので値段も安いと思う。 逆に造るのに時間がかかるものや劣化しにくいもの、希少なものや資格がないとできないものは価値が高く設定されているはずである。 虚構に価値をつける 千円札には千円の価値がある。 千円で買える物には本当に千円の価値があるんだろうか?。 物の価値は原料の手に入りやすさ、製造時間と手間、流通の方法、販売のしかたなどで値段が決まってくる。 これらは誰かが決めたことであり、条件が変われば価値も変わってしまう。 もともとあらゆるものには価値というものは存在しない。 人間がつくった虚構に価値を与えているだけである。 そしてその虚構を信じているおかげで

電気に頼らない生活の挑戦と学び

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電気に頼らない生活を目指すといっても、今の生活環境ではどう考えたって難しいことのひとつに数えられる。 しかし、東日本大震災の時に停電になり、電気の使えない生活をしばらくのあいだ余儀なくされた。 この経験から、どれだけ電気に依存しすぎていたことも分かったし、電気が使えなくても何とか生きていける、ということも分かったので貴重な体験をしたと感じている。 もしかしたら、人間が生きていくのに電気というものは必ずしも必要不可欠なものではないのかもしれない。 でも、ないと困るのも確かである。 電気がないと動かないもの達 現在、家の中で電気がないと稼働しないもので生活に必要なもの、照明・冷蔵庫・洗濯機・エアコン・炊飯器・電子レンジ・掃除機・ファンヒーターなど……。 情報を得るための媒体、テレビ・ラジオ・パソコン・タブレット・スマートフォンなど……。 その他にも、ドライヤー・プリンター・DVDプレイヤーなど、探せばまだまだあると思う。 こうやってみると人間は、電気がないと稼働しない電化製品というものに支配されているようにも感じる。 なにかひとつでも欠けたら不便だと感じてしまうだろう。 あとは、完全に電気に支配されているオール電化住宅なんてのもある。 今ある電化製品と代替できるものを探す 電気がない時代があったんだから代替できるものは必ずあるはず、と思いながら探してみたけど、たいしたものは思いつかなかった。 照明の代わりになるもの、ロウソクぐらいしか思い浮かばないけど東日本大震災の時は乾電池のストックがあったので夜は懐中電灯で過ごした。 冷蔵庫の代わりになるもの、クーラーボックスに氷を入れるくらいしか思い浮かばないけど、そもそも氷を作るのにも電気が必要、真冬だったら必要ないけど。 洗濯機の代わりになるもの、タライで手洗い、レベルアップしたら洗濯板を使う。 エアコンの代わりになるもの、ウチワが最適。 炊飯器の代わりになるもの、ガスが使えれば心配ない。 電子レンジの代わりになるもの、これもガスが使えれば問題ない。 掃除機の代わりになるもの、ほうきとちり取りが最強。 ファンヒーターの代わりになるもの、やっぱり反射式石油ストーブだと

ミニマリストになりたいのに物が捨てられないのはなぜ?

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ミニマリストになりたいんだけど……。 👀「ふ~ん、なればいいんじゃない」 とは言っても、なかなか物が減らないんだけど……。 👀「ふ~ん、減らせばぁ~っていうか、ミニマリストっていったい何なの?」 少ない持ち物で充実した生活を送ること、だったと思うんだけど。 👀「じゃあ、かたっぱしから捨てていかないと、もうすぐゴミ屋敷になっちゃうよ」 でも、もったいないしな~。 👀「あ、もしかして」 ミニマリストに対して持っているイメージ お金に余裕がある。 お金に余裕があるので心にも余裕がある。 心に余裕があるから必要なものと不必要なものを判断できる。 判断できるから無駄なものを買わないで、本当に必要で良い物を購入する。 本当に必要で良い物なので大事にする。 大事にして長持ちするので生活にお金がかからない。 最初に戻る。 なんとなくだけど、ミニマリストになれば好循環が訪れて人生まで良い方向に向かっていく、そんなイメージがあるだけどな~。 👀「だ、か、ら、なればいいのに」 ミニマリストになるのを邪魔する考え 自分の持ち物はたくさんある、っていうか、あり過ぎる。 使っていない物もたくさんある。 クローゼットにはいちども着てないけどいつか着るかもしれない服、本棚にはいちども読んだことがないけどいつか必要になり読むときがくるかもしれない本、あとは、小物類を入れるケースは未だに空である、その他に得体の知れないものがわんさかある。 今まで着ていなくても、これから着るかもしれない服を処分してしまったら同じ服を買うのにお金がかかる。 今まで読んだことがなくても、いつか必要になるときがきて読みたくなるかもしれない。 今まで何も入れたことがないケースでも、これから片づけをしようとやる気が出たときに、入れ物がなかったらせっかくのやる気も失せてしまう。 得体の知れないものは得体の知れないものだからどうしようもない。 これらは来るか来ないか分からない未来のために、処分することをためらっているだけなのだが……。 そして、たまに片付けをすると、存在すらも忘れていた物が出てくるときがある。

他人を見返してやるための怒りとやる気

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たまにだけど、過去の人間関係で腹の立つ出来事を思い出すと、純粋な怒りが湧いてくるときがある。 これは過ぎ去った過去だからであり、過去の出来事と因果関係がある未来を予測してしまうと、怒りから不安に変わることがあるので純粋な怒りにはならない。 純粋な怒りって何?……どんな感情なの?……と聞かれてもどういうふうに説明したらいいか分からないけど、心に負荷がかかっていない状態、だと思う。 心に負荷がかかっていないけど頭の中は怒りでいっぱい的な感じ……。 寝るときに始まる反芻は、怒りと不安が入り混じって心に負荷がかかって眠れなくなる。 たぶんこれがストレスと呼ばれるものだと思うが、純粋な怒りの場合は心に負荷がかかっていない状態、なのでストレスとも違うと思う。 その怒りの先には見返してやりたいという思いがあり、自らの劣等感が引き金になっている。 その劣等感を克服して他人に対して優位になり、見返して優越感に浸りたいという目標が有るから、嫌な感じにならない怒りが発生するのかもしれない。 その怒りが発生しているときは何故なのか分からないが、やる気も発生して体がスタンバイの状態になっている。 そのふつふつと湧いてきている怒りとやる気を利用して、めんどくさいと思って先送りしてきた事柄に手をつけてみたら、なんと、見返してやりたいと思う事柄に関連性がなくても、その怒りとやる気を利用してめんどくさい事柄を勢いでこなしていけるようになった。 他人より劣っていたり、同じでも別に気にしないという人間もいるが、ほとんどの人間は他人よりも優位性を保ちたいと思っていると思う、ていうか生きるための生存本能だと思う。 単なる劣等感だけなら落ち込んだりするだけだが、見返してやるということは成長しなければならないという要素も含んでいる。 その見返してやるという怒りの感情が成長のために、やる気というものを引き出しているのかもしれない。 過去にバカにされたこと、恥ずかしく感じたこと、悔しかったこと、その事柄を思い出したとき、もし純粋な怒りが湧きおこってきたら、人間として生きていくための優位性を確保するために発生しているのかもしれない。 怒りを利用してやる気が出れば、いろんなことに挑戦できる

依存の必要性とリスク

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依存が人間にとって必要かどうかは、意見が分かれる問題だと思う。 依存とは、何かに頼らなければ生きていけない状態を指し、極端な場合にはギャンブル依存症やアルコール依存症のような病気なってしまうこともある。 子供の頃は親に依存しなければ生きていくのが難しいし、大人になると社会や仕事、お金や家族などに一定の依存をしていくようになると思う。 しかし、依存が過度になると問題が生じてしまうときもある。 例えば、会社に依存している人間がいるとする。 その人間達は仕事に不満を持ちながらも、会社にしがみつき、周囲に愚痴をこぼす。 転職や状況改善の努力をせず、ただ現状に不満を抱えてしまっている。 そして、周囲にも本人にも悪影響を与えてしまう存在になってしまう。 一方で、社会や家族、友人、ペットなどに依存することは、人間が生きるために必要な支えを提供しているとも感じている。 人間は本質的に弱い存在であり、何かに支えられて生きている。 依存対象を失ったときの不安から逃れるためには、自己を信じ、自立する力を養っていくことが重要なのかもしれない。 依存しないように生きていくことができれば、精神的に強くなり、自分自身を信じられるようになると思う。 そのためには、依存対象がなくなったときには潔く受け入れ、自己を新たな依存対象にすることが必要である。 投稿:2021.10.20 水曜日

オタマジャクシから学ぶ自然と人生の不確実性

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かつて水たまりがあり、その中央付近のいちばん底が深かった場所に、オタマジャクシたちは寄り添うような形で死んでいた……。 これまでも死んだオタマジャクシを何度も見たことがあるけれど、今回の出来事はちょっと考えさせられてしまった。 自然界にいる生き物たちは環境の変化に影響を受けてしまうのだが、今回の件は運の要素を強く感じてしまった出来事だったからである。 なので、運に支配されている人間も例外ではないと思ってしまった。 梅雨時、毎日のように小雨が降り続いていたときの話。 水たまりがあり、毎日の雨のおかげでたまった水が無くならない状態が続いていた。 ある日、何かが動いているのを発見。 ボウフラでも繁殖しているのかと思いきや、なんとオタマジャクシだった。 親カエルはこんなところに卵を産んでいったらしい……。 ふ化したばかりだろうか、チロチロと泳いでいる。 こんな水たまりなんか雨が降らなくなったらすぐに蒸発するか、土に染み込んで水がなくなってしまう。 それに、食べるものもないのですぐに死んでしまうだろう程度に思っていた。 なので気にもしなかった。 しかし、その年の梅雨は水たまりを維持するかのように毎日、雨が降り続いた。 たまに見かけるたびにどんどん大きくなっていくオタマジャクシ。 最初はチロチロと泳いでいたオタマジャクシは狭い水たまりの中でウヨウヨとひしめき合いながら泳ぐくらいにデカくなっていた。 ここで疑問が湧いてきた、何を食べて大きくなったんだろう……。 微生物?それとも土から染み出した養分、もしかして雨の中に何かしらの栄養素があるのだろうか……。 気になったので調べてみたら蛙は昆虫などを食べる肉食だが、オタマジャクシ時代は草食らしい。 草食?……。 だとするとその水たまりには、雨雲で太陽の光が遮られた状態でも、わずかだが苔が生えていることになる。 それをみんなで食べて大きくなった、ということになる。 この大きさなら間もなく足や手が生えてくるし、えら呼吸から肺呼吸に変われば、いつ水が無くなるかもしれない不安定な水たまりから卒業していくことができる。 あともう少しの辛抱でカエルになれる。 毎日降り続いていた雨もいつの間にか止んで

この世は理不尽でできている

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スポンサーリンク 世の中は何故こんなにも理不尽なんだろう。 それは、自分勝手な人間がいるからである。 他人のためになるようで、結局は自らの欲を満たしている。 誰かが理不尽に感じるのは誰かの自分勝手のせいだし、自分が我を通せば、誰かが理不尽に感じることもあると思う。 なので世の中は理不尽が支配しているのである。 ルール 自分が生まれる前からこの世には誰かが定めたルールが存在する。 家庭内のルール、学校のルール、会社のルール、社会のルール、そして人間としてのルール。 ルールを守って当たり前とされ、破ればバツがまっている。 それもルールである。 ルールに従うように子供の頃から刷り込まれて教育されてきた。 そのおかげで社会が成り立っているというのは理解しているつもりだが、なんか、ルールを定めた時に関与していないから一方的に押し付けられているようで理不尽に感じることも多い。 仕事 仕事上の人間関係こそ、理不尽の塊である。 こちらはフラットな人間関係を築きたいのに、マウントを取りに来る人間ばっかり。 毎日、腹が立ってしょうがない。 言い始めたらきりが無いし、それぞれ思いも違うのでどうしようもない。 理不尽の王道である。 冤罪 あってはならないことだが、今までも身に覚えのない罪を着せられて自由と時間と命を奪われてきた人間も存在していた。 今までもあったということはこれからもあるということ。 理不尽の域を超えている。 強いものが支配する世界 人間以外の生き物たちの世界は弱肉強食なので、捕食するものは捕食されるもののことなど考えない。 捕食されるものにとってはとてつもなく理不尽である。 ある日突然、お腹が空いた生き物から食べられて命を奪われるのだから……。 それが自然界のルールなんだと誰かが言ったとしても、言ったその人間が食べられる側だったらそんなことは言わないと思う。 他の命なら関係ないが、自らの命がかかわってくるとすぐさま手の平を返す人間の、このあたりの考え方がちょっと……。 命はかけがえのないものだというのは人間による人間のための虚構であり、他のたくさんの生命体には当てはまらないと思う。 ご都合主義な人

円状交差点のスムーズな通行法と注意点

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この円の形をした交差点は 環状交差点 とか、 ラウンドアバウト などと呼ばれている。 初めてこの交差点を通過したときは、なんて画期的な交差点なんだ、と思ったことを覚えている。 この 環状交差点 には、なんと…… 信号機 が存在しない、そして、 止まれ の標識すらも存在しないからである。 が、その代わりに路面に ゆずれ と書いてある、えっ、何をゆずるんだろう?……。 パッと見はたいしたルールがなさそうだが、いちおう安全に走行するためのルールが設けられている。 まず 環状交差点 に近づいたら左側によって徐行する。 交差点内で走行している車が優先になっているので、走行の妨げになりそうなら一時停止する。 そのための ゆずれ であった。 もちろん人や自転車などがいたら一時停止するか ゆずれ である。 交差点内は時計回りの一方通行なので、進入するときはウインカーは出さなくてもいいことになっている、なぜなら、一方通行だから、だが普通にウインカーを出して進入するドライバーも見かける。 たまにだが無意識に自分もウインカーを出して侵入しているときがある、交差点内は危険なので注意を怠らないようにしないと……。 そして進入した後は、出ていきたい方向にある道路の直前でウインカーを出し、交差点を出るまで点滅を継続させながら出ていく。 う~ん、スムーズだ。 と、思っていたが何度も通過していたら、なんかめんどくさいと思うようになってきた。 それはハンドルを切る回数。 左方向に行きたいときはまだいいとする、左にハンドルを切ってチョット戻してまた左にハンドルを切る、なれると特に問題はない。 ここからがめんどくさい。 直進方向に進みたいのに左にハンドルを切る、そして戻して今度は右にハンドルを切る、そして戻してウインカーを出して今度は左にハンドルを切って交差点から出ていく。 作業量が多過ぎる。 そして右方向に行きたいときも最初は左にハンドルを切る。 ここでくじけてはいけない、戻してから右に切る、そして出ていきたい道路までその状態をキープし、戻したらウインカーをあげて左にハンドルをきり脱出する。 ふぅ~疲れた。 このウインカーを出すタイミングがハンドルを戻して

欲を諦めて無欲になりたいと思うのも欲

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スポンサーリンク 欲とは、人間の体が求めるものや心が望むものであり、ひとりひとりの観念により望むものが違ってくる。 本能から発せられているので最終的には自分の命を守るためや、自分の精神を維持するために機能している。 体が求めているものは生命を維持するためなので何となく同じものが多いが、心が求めているものは人間の数だけ違うような気がする。 そして、欲があるおかげで人間は生きていくことができると思う。 いや、すべての生命体に共通していることだった。 そして、他の生命体と違い人間が社会で生きていくためには欲というものを、ひとりひとりがコントロールしていかなければならない。 窮屈に感じていたとしても、望むものが手に入らないとしても、夢が叶わないとしても。 必要不可欠な欲 欲とは、人間が生きていくには必要不可欠だということは、なんとなくは分かっている。 食欲が無ければ命を維持できないし、物欲が無ければ社会が機能しなくなる。 そして性欲が無ければ人類はいずれ絶滅してしまう。 しかし、それらの欲をコントロールするのは難しい。 なぜなら、人間だから、人間は欲の塊だから。 人間は本能をコントロールすることもできるが、本能に翻弄されることのほうが多いような気もする。 欲を諦めたとしても かなり難しいが、他人との比較に意識を向けない、難易度=劇ムズ。 当たり前のことを当たり前と思わないようにする、難易度=気づきもしない。 足るを知ることも重要、難易度=無理。 なんか、人間ってどうしようもない生き物なのかもしれない。 そして、年代によってもいろいろ変わってくるが、潔く諦めきれることも出てくると思う。 いや、諦めなくてはならないことだった。 諦めが肝心という言葉もあるくらいだから大切なことかもしれない。 それでも、次から次へと湧いてくる欲。 もし欲を諦める方法があるとすれば、欲を出し過ぎて失敗すること。 失敗して嫌な思いをすれば、そのものに対しての欲を求める気さえ失せてしまうはず。 とは言っても、それでも同じ過ちを繰り返してしまうのが人間。 失敗を糧に

魂という不思議な存在とは?

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ある日、ふと思ったことがある、魂とはいったい何だろうか……。 存在するのか、しないのか、どちらともいえない不思議な存在。 生きている間は体に宿り、死ぬと体から抜け出すとされている。 しかし、生まれる前や死んだ後の魂については、多くの説があり、何が真実なのかは分からない。 魂の本当の意味は「精神的実体」という概念らしい。 概念?……と思うかもしれないが、概念とは、多くの人がそう認識しているだけで、本当に存在しているかどうかは分からない、ということである。 なんか、分からないことばかりだ……。 もし魂が本当に存在していたらどんな感じなのか、なんとなくイメージしてみたけど無色透明の球体のようなものしか思い浮かばない。 その球体が人間の体に宿ったときから、その人間の人生のすべてがどんどん詰め込まれていくと思う。 なんか、人間関係のストレスが溜まりすぎて真っ黒でドロドロなものでいっぱいになりそうな感じがする。 その魂が宿った人間の生命活動が終了した時点で魂はリセットされ、元の状態に戻り、そしてまた魂は次の宿主を探すことになる。 リセット?……えっ、そうだと思うけど。 前世の記憶とか、因果関係などで後世にまで影響を与えてしまうのは、リセット時に何らかの障害により詰め込まれたものが残ってしまうことだと思う。 怨念とかかな。 とはいえ、実証されたわけではないので真実は何だか分からない。 この世は魂の修行の場の疑問 何で聞いたか忘れたが、この世は魂の修行の場だと聞いたことがある。 不思議だったのが、物質じゃない魂の方が高位な存在のはずなのに、下位の物質世界に来て修行をしても、魂のレベルは上がりづらいのではと思ってしまった。 魂の修行の場は更に高位な場所に行かなければレベルアップは見込めないと思う。 この現実世界が駄目な世界だったら魂も駄目になってしまうから……。 んっ、もしかしてふるいに掛けてまともな魂を選別しているのでは……。 あまり考えないようにしよう、いくらでも可能性がでてきそうなので……。 魂はクリアなもの そうであってほしいと思う

あらゆる人間に平等に訪れるもの

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この世には平等という素晴らしい言葉があるのに、現実の人間社会ではその意味を見出すことは難しいように感じる。 平等な社会を目指すといっても、それは理想に過ぎず、現実にはほとんど達成不可能だと思う。 なぜなら、我々の本能に刻み込まれている、生き残るための優位性を誇示する性質がそうさせているのかもしれない……。 それでも、人間という生命体に生まれた以上、誰にでも必ず平等に訪れるものがある。 何がどうなったとしても、この世に誕生してしまったら、いつか必ず命を失ってしまうということ。 あらゆる人間に平等に訪れるのはこれしかないと思う。 自分が知っている範囲では、不老不死になって生きている人間はいないと思うので誰一人例外はないはずである。 たとえ幸福でも不幸でも関係ないし、金持ちでも貧乏でも関係ない。 権力があってもなくても関係なければ、天才でも凡才でも関係ない。 そして信仰心があったとしても、ないとしてもまったく関係なく命は失われる。 そして、自らの命さえもいつか必ず失ってしまう。 本当は生きているときに平等であればいいとは思うが……。 先延ばしにしてもいつか必ず訪れる 平等に与えられているにもかかわらず、ほとんどの人間は命を失うことを受け入れられない。 そして本当に命を失うことを恐れている人間はこういうことをよく言う。 「死ぬのなんか怖くない」 なぜかこういう人間に限って人間ドックでの健診を欠かさなかったり、健康に気を使っていたり、老後の生活の心配をしたりしている。 そして年を取れば取るほど自らの死を認められなくなり、こういうことをよく言うようになる。 「いつ死んでもいい」 頭の中では命を失うことへの不安を漠然と考えるようになり、心の内を悟られないために口癖になってしまっている。 自分が認めたくないことを、強がりを言って否定するのが人間である。 そうやって命を失う恐怖や不安と対峙している。 今は医療が発達して過去に治療不可能だった病気でも助かる確率が高くなってきている。 苦しい思いをしてその山を超えても、すぐに次の山があっという間にやってくる。 もっと険しい山が……そしていつかは……。 人間は

気に入った格言をアレンジして人生の役に立てる

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人間関係の悩みは、どの時代においても常に存在する。 人間が生きている限り、これらの悩みは消えることはない。 そして、人生は常に挑戦の連続である。 過去の先人達は、少しでも生きやすくなるようにと、素晴らしい格言を残してくれた。 その中で、特に共感し、人生の指針として役立てているのが「正範語録」である。 「正範語録」 実力の差は努力の差 実績の差は責任感の差 人格の差は苦労の差 判断力の差は情報の差 真剣だと知恵が出る 中途半端だと愚痴が出る いい加減だと言い訳ばかり 本気でするから大抵のことはできる 本気でするから何でも面白い 本気でしているから誰かが助けてくれる これらの言葉は、それぞれ深い意味を持っているが、自分にとってより納得できるようにアレンジを加えてみた。 1 行目の「実力の差は努力の差」という言葉は、努力を積み重ねた人間と、そうでない人間の間には明確な実力の差が生まれることを指している。 努力は積み重ねて初めて実力となり、自信にもつながっていく。 2 行目の「実績の差は責任感の差」とは、責任感を持って取り組むことで実績がついてくる事を意味している。 誠実に物事に向き合うことで、信頼と実績を築くことができる。 3 行目の「人格の差は苦労の差」とは、困難を乗り越えた経験が人間の器を大きくすることを示している。 寛容さや深い理解力が養われる。 4 行目の「判断力の差は情報の差」という言葉については、「判断力の差は経験の差」と解釈し直した。 情報は重要だが、それを適切に判断するには経験が不可欠だと思ったからだ。 1行目から4行目までは他人との比較になっていて、なにかをやった分だけ顕著に違いが表れるという分かりやすいたとえ。 5 行目の「真剣だと知恵が出る」とは、集中して取り組むことで新たなアイデアや解決策が生まれることを意味している。 自分は、たまにしか改善点が思い浮かばないので真剣さが足りてないのかもしれない。 6 行目の「中途半端だと愚痴が出る」は、物事に真剣に取り組まない人間が不満を抱えやすいことを示している。 自分も不満があるときは物事に真剣に取り組んでいない可能性があるので注意している。

騙されないために意識する「仮置き」

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スポンサーリンク 騙されるとは嘘をつかれることである。 嘘をつかれ陥れらることであり、騙されてしまうとお金や物・時間まで失ってしまい、最終的には心にまで大きなダメージを受けてしまう。 腹が立つのと悔しいのと愚かさで心がいっぱいになってどうしようもなくなる。 騙されて被害にあい、精神的苦痛を受けないためにはどうすればいいのか?。 やっぱり自分以外の人間をむやみに信用したり信頼したりしないこと、それしかないと思う。 かといって誰も信じたり頼ったりしなければ、人間社会を生きていくのが困難になってしまう可能性もある。 人間はひとりでは生きていけない。 なので、騙されても影響がないと思われる範囲、自らがリスクを負っても致命的なダメージにならない範囲を予め設定しておく。 それ以外は「仮置き」をするように習慣づける。 仮置きとは、誰かに言われたことやメディアから知りえた情報を頭の中に一時的に置いておき、すぐには信じたり信頼したり、果ては行動に移さないようにすること。 信じるのではなく、そういうこともあるかもしれない程度の記憶にとどめておく。 すると、自分以外のすべての人間が発している情報などは鵜呑みにしなくなる。 どうでもいいことは忘れてしまっても構わないが、気になるようなら信憑性を確かめる。 いろんな人間に聞いてみたり、ネットで検索してみたり、本で調べてみるなどして同じ答えがあったのなら正解に近いと思う程度でいいと思う。 自分以外の人間が作り上げた虚構など、信じるに値するかどうかの判断は最終的には自らが決めなければならない。 誰かが言っていたから、誰かに勧められたからと、他人のせいにしていたらいつまでも同じ過ちを繰り返すことになる。 信じると決断したのは紛れもなく自分自身だということを忘れないようにする。 自分以外の人間やメディアに騙されたことがあるなら、まずは情報を頭の中に「仮置き」してみる、その後に信憑性をたしかめる、そして安心してから行動するようにすれば、騙されたということは極力少なくなると思う。 それでも人間関係では様々なことが起こりえる。 何かを頼まれたら、そのリスクを背負う覚悟がなければ引き受けてはならない。 特に、しつこく進めてく

会社を辞めると言った人間を引きとめてはいけない理由

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ほとんどの人間は会社などに勤めていると思う。 その会社を辞める際には、それ相応の理由と覚悟があるはずである。 しかし、世の中には会社を辞めると言いながらも、何事もなかったように仕事を続けている人間がいる。 こうした人々はどの職場にも一定割合で存在するような気がする……なぜ、そのようなことが起こるのだろうか。 会社を辞める理由は様々なものがあると思う。 収入面や体調の問題、人間関係の煩わしさ、独立する、引っ越しや家業を継ぐなどの環境の変化、ただ単純に仕事が嫌いというものまで理由は多岐にわたると思う……中にはすべてが面倒になったり、人生に疲れたりして辞める人もいるかもしれない。 通常、辞めると決断した後は責任者や上司に報告するか、直接退職願を提出するのが一般的だと思う。 中には、退職代行サービスを利用する人もいるかもしれない。 それにもかかわらず、辞めると宣言した後も継続して働いている人間がいるのはなぜなんだろう?……。 おそらく、辞めると報告した後に会社側から説得された結果だと思う。 収入に関しては賃金アップ、仕事に関しては環境改善、人間関係の悩みには部署変更など、会社側が条件を提示し交渉が行われた可能性がある。 この条件に納得したため、辞めることを取り消し、引き続き働いているのだと思う。 このような場合、当人と会社の双方が納得しているのであれば一見問題はないように思う……しかし、後々人間関係の問題を引き起こすことがある。 辞めると言いながら辞めなかったことで、周囲からの信用を失い、まるで子供が駄々をこねて欲しい物を手に入れたように見えてしまう。 辞めるという前に改善を促すなら理解できるが、辞めると宣言した後に交渉するのは、当初の決意はどこに行ったのって感じがするからである。 こうした行動は、短期的には待遇や環境の改善を得られるかもしれないが、長期的には不満が再燃し、再び辞めると主張しても今度は説得されず、そのまま退職に至る可能性もある。 また、同僚や上司に対して不満を漏らすことで、職場の雰囲気を悪化させる温床にもなってしまう。 これまでにそういったことをたくさん見てきた経験から、本当に辞める人は次の職場を決めてから静かに退職してい

恥ずかしい感情というのは人間だけにあるの?

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なんか、恥ずかしい……。 👀「はあ?いい歳こいて何恥ずかしがってんの!」 子供の頃はいろんなことで恥ずかしいって感じてたけど、大人になってからも恥ずかしいって感じることがたくさんあるんだ。 👀「へぇ~そうなんだ」 そういえば、他の生き物に対して恥ずかしい気持ちになったことはないし、他の生き物が恥ずかしがってたのを見たことがないんだけど……。 👀「確かに、恥ずかしがっている生き物は見ないね」 ということは人間にしか持ち合わせていない人間特有の感情ということになる。 👀「う~ん、そうかも」 そして、人間が社会で生きていくために必要不可欠な大事な感情のような、そんな、そんな気もする。 👀「大袈裟だな~なんかこっちが恥ずかしくなってきた」 ひとりひとり違う感情 いつも思うんだけど、人間の感情くらい不確定で不安定なものはないと思う。 そして、他人と自分の感情の感覚が本当に同じようなのかはハッキリ言って分からない。 なので、顔の表情や言動から推察し、これまで経験したことがある自分の感情の感覚と照らし合わせてから、たぶん同じだろうと判断するしかない。 この感覚のズレが人間関係を煩わしくしている原因かもしれないけど……。 なので、自分が感じる恥ずかしいという感情と、他人が感じる恥ずかしいという感情が本当に同じような感覚なのかは分からないので、自分の経験した感覚から考えてみるしかない。 👀「おおっ!」 価値観を植え付けられる 子供の頃の記憶を思い返してみると、う~ん、家族や周りの人間からこういうことは恥ずかしいことだと言われてから恥ずかしいと感じるようになったのか、それとも自然に恥ずかしいと感じるようになったのかは思い出せない、ていうか覚えていたら凄い。 なんとなくだけど、人間社会という集団の中で生活するための最低限のルールみたいなものがあって、こういうことは恥ずかしいこと、という家族や周りの人間の持つ価値観を植え付けられてから、のような気がする。 たぶん、そうだと思う。 なので、このころに恥ずかしいの基礎的なものができあが

否定から入る人間と会話をすると訳が分からなくなる

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たあいもない会話でも、マウントを取ろうとしてくる人間やマウントを取ったと思い込んでいる上から目線の人間は、他の人間に対してある共通の否定する言葉を使っていることに気づいてしまった。 それまでは何となく違和感のようなものは感じていたが……はたしてマウントを取りに来たりマウントを取ってあるあるからこそ使う言葉とはどんなものなのか?……。 会話中にこちらの話を聞いた直後、 「違う」 「でも」 「いや」 という否定する言葉を口癖のよう付けてくる人間がいる。 こちらの言った内容が間違っているなら、 「それは」 「これは」 「あれは」 という言葉を使って正解や自分の考えを言えばいいだけなのに、わざわざ否定から始める。 気にしなければいいことだけど、いちいち否定されていることが気になりだすと、腹が立って話もしたくなくなる。 そういう人間は普段から嫌味を言ったり、陰口を叩いたり、愚痴をこぼしたり、わざと反対のことを言ったりする厄介な人間である。 もうこの時点で関わりたくないタイプのひとりに数えられる。 そんなもの気にしなければ気にならないが、気になりだすと会話をする気さえも失せてしまい気分までも悪くなる。 そして、大切なやる気さえも失われてしまう……。 聞いている方は、いちいち否定されることで自尊心が削られたり、ストレスが溜まり心身が蝕まれる可能性もある。 最終的には人間関係が悪化する要因となりうる。 こういう人間と会話する際の注意点は、彼らが話の内容を否定しているのではなく、会話の相手自身を否定して優位性を誇示しようとしている場合があることだ。 もちろん信憑性など、ある訳がない。 優位性を誇示するためだけにマウントを取る人間の話を鵜呑みにすると、特に仕事関係では大変なことになる可能性がある。 この前言ったことと今回言ったことが違っていたりすると混乱することもあるし、挙げ句の果てに「この前の話と違う」なんて指摘すると「そんなこと言った覚えがない」なんて返されることもある。 そんなシチュエーションになって自分も苦労したことがあるし、似たようなことで苦労していた人間を何人か見たこともある。 そういう人間がマウントを取っていると判断したら、人間関係を良好にするのは難しいと

体を健康に保ちつつ心を健全に保つ方法

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スポンサーリンク この世界は物質でできていると思う、なので人間も物質でできていると思う。 なので、心や精神と呼ばれているものは物質で構成されている人間という生命体の体の中の脳というところで発生しているだけだと思う。 人間の体に魂が宿っているから心や精神があるのではなく魂の代替のようなものとして脳の中で発生していると……。 もしかしたら目に見えない何かしらのエネルギーが人間に影響を与えているということはあるかもしれないが、現時点ではその得体の知れないエネルギーを証明できない。 無いとも証明できないけど……。 それに、人間の持つ生命エネルギーは食物から摂取していることになっている。 なので、人間は物質のみでできているとしか考えられない。 そして、物質でできた脳があり、そこで構築された精神から心が生まれてきたと思う。 とすると、体と心はどっちを優先してケアしなければならないんだろう?……。 卵が先か鶏が先かの話になるが、健康な体に健全な心が宿るのか、それとも健全な心は健康な体を構築するのかと考えた時、どちらなのか分からないが、どちらも正解な気もする。 しかし、やっぱり物質世界では物質を優先すべきだと思う。 心に影響を及ぼすのは物質世界からの情報によるからである。 人間に備わっている五感からの情報。 第六感もあるかもしれないが、自分には無かったので五感しかないことにする。 受精してから細胞分裂が繰り返され身体がつくられていき、その後の成長過程で心がつくられていくと思う。 そしてその心は身体の影響をモロに受けていると思う。 身体のどこかが痛い、苦しい、かゆい、気持ち悪い、疲れがたまっているなどの異常があれば、いくら心が穏やかな状態であってもそれらの不快が優先され心も不快になる。 なので最低限、人間は健康な状態でなければいけない。 心のケアをするのはそれからである。 そして健康な状態を維持して毎日、五感を使って心のケアをする。 もちろん人間関係のストレスのケアである。 綺麗なものを見て心を美しくする。 素敵な音楽を聞いて心を癒す。 華やかな匂いを嗅いで心を落ち着かせる。 美味しいものを食べて

他人の言動に腹が立った時に思い出したい諺

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世の中には素晴らしい諺がたくさんある。 短い文章の中で、人間として生きていく上での真理が的確に表現されている。 特に「人の振り見て我が振り直せ」という諺は、人間関係において非常に重要な意味を持っていると思う。 しかし、この諺の本当の価値に気付いている人間は少ない。 この諺は、他人の言動を見て自分の行動を省みることの重要性を説いている。 他人の欠点や行動はよく見えるが、自分のことは見えていないことが多い。 例えば、他人の行動に腹を立てるとき、自分も過去に同じような行動をしたことがあることに気付かないで腹をたてている場合がある。 自分も、かつて他人の行動に腹を立てていたときがあったが、ある日、自分も同じ行動をしていたことに気付いてしまった。 そのとき、この諺の本当の意味を理解したと思う。 そして、理解してからは他人の愚痴を言うのが極端に減ったと思う。 なぜなら、愚痴を言って発散していたつもりが、わざわざ自らは見えない自身の欠点を他人に教えていただけだったと分かったからである。 今ではとても恥ずかしい行為だったと感じている。 もし、この諺を本当に理解している人間が近くにいたら、とてつもなく貴重な存在であることを認識しておこう。 そして、人間関係の悩みで疲弊していたときに思いついた言葉をそのまま諺にしてみたのがこれ。 「どうしようもない人間はどうしようもない」 オリジナルの諺が誕生した瞬間だった。 確かに、世の中には人間関係を良好にしようとしても、どうしようもできない人間が存在する。 特にコンプレックスの塊と自らは偉いんだと勘違いしてマウントを取ってくるような人間は要注意である。 何とかしようと思うこと自体がが間違いであり、どうすることもできずに自らの生命エネルギーと精神エネルギーを消耗するだけである。 どうしようもない人間を早期に発見して距離をとる、関わらない、二度と会わないなど対策を施さないと自らが疲弊するだけである。 手遅れになると自らの心を病んでしまい、挙句の果てに身体にまで影響を及ぼし病気になってしまうかもしれない……。 大切な人生をそんな人間のために犠牲にしてはならない。 自分の人生は自分で守る。 とにかく早期発見である。 人

「実力」と「運」の関係性はないと思っていたけど…

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「運も実力のうち」という諺がある。 初めて聞いた時から、なんとなく違和感のようなものを感じていた。 運と実力はまったく別物のような気がするのに、実力の中に運が入ってしまっている。 「運」というものはそんなもんじゃないはずである……。 でも、もしかして間違って意味を覚えているかもしれないので調べてみたら……。 運とは「その人間の意志や努力ではどうしようもない巡り合わせ」となっている。 やっぱり、人間ではどうすることもできないことが運だった。 ということはなぜ、どうすることもできないものを実力に組み込んでしまったのだろう。 う~ん……いちおう考えてみたけど……。 なんとなく思ったのだが、実力のある人間が何もかもうまくいっていることが、他人からみると運までも味方につけているように感じらるから、かもしれない。 実際にその人間が揺るぎない意志と血の出るような努力をして結果を出していたとしても。 他人から見れば、あいつは運がいいから、となってしまっていると思う。 逆に本人はそうは思ってはいないだろうけど。 それに、こういう諺があるということは自分の能力以上のものを味方につければうまくいく、それは自分次第で何とかできるという思い込みもあると思う。 なのでこの諺は自己啓発のようなものだと思った。 調べていくうちに、いろんな人間がこの諺に対して考察していることが分かり、いろんな考えを知ることができた。 やはり自分と同じで、運の意味を知っているけど何か違うんじゃないか、もしかして何か因果関係があるのではないか、とか。 ここで他の人間の考察を知らなければ、未だに運と実力は別物だと唱えていたかもしれない。 でも、解釈は人それぞれなので、自分で考えたり感じたりしてそれでいいと思ったことはそれでいいと思う。 だって世の中は虚構でできているんだから、いちいち疑っていたらキリがない。 最後に、本当の運とは人間ごときじゃコントロールできないという事柄だけは忘れないようにしたい。 運を味方につければ何とかなるとかっていう触れ込みがあるけど、そんなものを鵜呑みにしないことが大切だと思う。 イラスト:「イラストAC」mine 投稿:2021.5.2

「絶対」という言葉を言う人間の信憑性

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言葉は人間にとって非常に重要なコミュニケーションツールである。 しかし、言葉の中には「無限」や「永遠」といった理解しがたい概念も含まれている。 そして「絶対」という言葉もそのひとつだと思っている。 かつて「絶対というのは絶対にない」と言い切る人間がいた。 この言葉を初めて聞いたときは意味がよく分からなかったので、別段気にもとめなかったし、考えるだけ無駄な意味の無い言葉だと思っていた。 後になって、もしかして人間が会話で使う「絶対」という言葉の信憑性のことを指しているんじゃないかと思うようになっていった……。 日常会話で「絶対」を使う人々は、自分の意見や主張を強調するためにこの言葉を使っているような気がする。 例えば……。 「絶対にある」とか「絶対にない」とか……。 「絶対にする」とか「絶対にしない」とか……。 「絶対にいる」とか「絶対にいない」とか……。 「絶対に言った」とか「絶対に言わない」とか……。 そして、「絶対に儲かる」とか「絶対に儲からない」とか……。 しかし、これまでの経験では「絶対」と言い切る人間の言葉ほど信憑性が低いことが多いと感じている。 この言葉はしばしば、場を取り繕うためや相手に対する優越感を示すために使われることもある。 また、詐欺まがいの話で「絶対に儲かる」といった言葉が使われることもあるので注意が必要である。 今思うと、「絶対というのは絶対にない」の本当の意味は、人間が言う「絶対」という言葉ほど当てにならない言葉はないってことを言いたかったのかもしれない。 確かに人間の言う「絶対」というのは「絶対」ではないと思う。 なので「絶対」を多用する人間の言葉を鵜呑みにしてはいけない。 そうすれば、いくらかは人間関係のストレスが減るし、いちいち惑わせられなくて済むと思う。 ちなみに「絶対」の意味を調べてみると、他に比較するものや対立するものがなく、何ものにも制約・制限されないこと、となっている。 なんかもう、神様の領域なのでは……。 人間がおいそれと使うのは、なんか、おこがましい気もする。 イラスト:「イラストAC」chappy05 投稿:2021.5.20 木曜日