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貢献の本質と幸福のかたち

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他人に貢献することは、ぱっと見、とでも素晴らしい行いのように思える。 また、見返りを求めずに貢献することで幸せを感じるとも言われている。 確かに、良好な人間関係には貢献が重要な役割を果たしているかもしれない。 しかし、自分の経験上、必ずしもそれが幸福に結びつくとは限らないと感じることもある。 なにより大切なのは、まず自分にしっかりと向き合い、自分自身に満足することだと思う。 そうして心が満たされたとき、自然と他人にも貢献したいと思えるようになると思う。 そのとき初めて、純粋に見返りを求めない行為が生まれるのだと思う。 ただし、貢献する際には、相手に迷惑をかけないよう気を配ることも大切である。 善意がかえって余計なお節介と取られることもあるからである。 貢献しても幸福を得られない理由 過去の経験から、たとえ見返りを求めずに貢献したとしても、相手の態度や行動が期待とは違うと「あの時に貢献したのに」と感じることがある。 貢献が無私の行為であっても、後になって自分の感情が揺さぶられるのは避けがたいものだが……。 貢献で幸福感を得られる人は、物事を割り切れるタイプだと思う。 自分はまだそこまで割り切れないと感じている。 貢献に適した相手とは 理想的には、自分にとってプラスとなる相手に貢献することが望ましい。 そうした相手からも同じような貢献が返ってくると、双方が幸福感を得られ、良い関係が築けると思う。 とはいえ、無条件で貢献するのではなく、相手の反応や状況を観察し、無理なく続けられる範囲で行うことが重要である。 貢献を控えるべき相手 一方で、自己中心的だったり、貢献を当然と思うような相手には、貢献は控えるべきである。 こうした相手には感謝されることもなく、結果的に自分が疲れてしまう。 このような人とは適度な距離を保ち、自分の心を守ることが大切である。 自分のために貢献する 自分のために他人に貢献する、という考え方も大事である。 見返りの有無にかかわらず、最終的に自分にプラスになるような行動を選ぶことが、良好な人間関係を築くための鍵になると思う。 感謝されないことがあっても、それを自己満足と受け入れることで、長期的な幸福につながるのではないのだろうか。 ...

「楽して儲かる話」には乗らないように注意していること

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「楽して儲かる話」……えっ、そんな仕事なんてこの世にあるのだろうか?……。 そして、「誰でもできる」「簡単」「短時間で高収入」「初期費用無し」……こんな言葉を聞くと、つい気になってしまう人も多いと思う。 もし本当にそんな仕事があるのなら、ぜひやってみたいと思うかもしれない……。 しかし、冷静に考えてみると、お金を稼ぐことに「絶対に損はしない」「必ず儲かる」という保証があるのは不自然である。 なぜなら、どんなビジネスにもリスクがつきものだからである。 例えば、商品を売る場合、仕入れた商品が売れ残るリスクがあるし、投資なら、相場の変動で元本を割ることもあり得る。 どんな仕事でも、成功するには努力や知識、運が必要である。 それなのに「ノーリスクで儲かる」と言われたら、まずは警戒するべきだと思う。 なぜ儲け話を他人に勧めるのか? 「そんなに儲かるなら、自分だけでやればいいのでは?」と思ったことはないだろうか?。 確かに、誰かが本当に儲かる方法を知っていたら、わざわざ他人に教える必要はないはずである。 しかし、世の中にはフランチャイズビジネスのように、他人にノウハウを提供することで利益を得る仕組みもある。 例えば、コンビニやファーストフードチェーンはフランチャイズ契約を結び、店舗オーナーに経営ノウハウを提供する代わりにロイヤリティ(使用料)を受け取る。 これは双方に利益が出る可能性があるビジネスモデルである。 とはいえ、フランチャイズにもリスクがある。 立地が悪ければ売り上げは伸びないし、同じブランドの店が近くに増えすぎると競争が激しくなり、収益が減ることもある。 「楽して儲かる話」の裏側 一方で、ネット上には詐欺まがいの「儲け話」も多くある。 例えば、高額な情報商材を売るために「この方法で絶対に儲かる!」と誇大広告を出すケースもある。 しかし、実際には無料で手に入る情報と大差なかったり、内容が役に立たなかったりすることもある。 また、「初期費用なし」と言いながら、後から高額なサービス料や追加費用を請求されるケースもある。 こうした手口に引っかからないためには、以下の点をチェックしてみるといいと思う...

人間が生きる意味ってなんなんだろう

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人間が「生きる意味」を探そうとするのは、地球上の生命体の中でも特別ことかもしれない。 生物学的に見れば、生き物はただ生まれ、成長し、子孫を残し、そしてやがて死んでしまう……。 これが自然の摂理である。 しかし、人間はそれ以上の何かをもとめて「自分は何のために生きているのか」という問いを抱いてしまい、答えをさがしてしまう……。 生きる意味を考え始めると、その答えはあるようでないように思える。 非常に曖昧で捉えどころのないテーマだが、それを考えること自体が人間に与えられた特別な能力であり、時には「なぜこんなにも複雑な生き物に生まれてしまったのか」と嘆くときもある。 それでも、せっかく人間として生まれたからには、生きる意味を見出し、たった一度きりの人生を全力で生き抜く価値があるのではないのだろうか……。 生きる意味を見つけるヒント 社会の中での役割を果たす 人間は他者とのつながりの中で自分の存在意義を感じることが多い生き物である。 家族を支えるため、友人と助け合うため、職場や地域社会で役立つ存在になること。 それらの関係性の中で、自分が誰かの役に立っている、必要とされていると感じられる瞬間に、生きる意味を実感する人も少なくないと思う。 自己実現を追求する 生きる意味を「自分自身の成長」や「目標の達成」に見出す人もいる。 例えば、芸術を愛する人は作品を通じて自己表現を楽しみ、研究者は新たな発見で人類の知識を広げようとする。 何かを極めたり、挑戦し続けたりするその過程そのものが人生を充実させ、生きる意味を形作るのかもしれない。 小さな幸せを積み重ねる 「幸せになるために生きる」という考え方も自然なのかもしれない。 美しい景色を眺めること、美味しい食事を味わうこと、大切な人と笑いあうこと。 これらの日常の中の小さな喜びが積み重なることで、人生の意味が見えてくる場合もあるかもしれない。 生きる意を見つける過程そのものが意味 たぶん、ある哲学者が言ったことだと思うが「生きる意味を探すこと自体が、人生を豊かにする」と聞いたことがある。 答えは、あらかじめ用意されているわけではなく、自分で見つけていくものかもしれない。 何かに迷ったり、悩んだりすることさえも、生きる意味を作り上げる大切な要素になると思う。 どんな意味でも、それは「自分のため」でいい もし生...

もち米と普通の米の違いとは?

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もち米とは、いわゆる「おもち」の原料になるお米のこと。 おもちはそのまま食べても十分においしいけれど、しょうゆもち、なっとうもち、のりもち、づんだもち、くさもちーーと、どれも絶妙にうまい。 お雑煮も大好きだけど、なかでも味噌ラーメンにおもちを入れるのが最高だと思っている。 おもちがスープにとけ込んで、ドロッとした雑煮風になったところに麺に絡む、あの食感がたまらない。 他にも、おこわやおはぎ、お団子のように、もち米とうるち米(普通のごはんに使うお米)を混ぜたものも好きでよく食べる。 うるち米とは普段の食事で食べるお米のこと。 さて、うるち米ともち米。 精米した状態で並べてみると、昔からずっと疑問に思っていたことがあった。 ーーなぜうるち米は炊く前に半透明なのに、もち米は最初からまっ白なんだろう?。 「白いということは、何か特別な栄養素が含まれていて、あのモチモチ食感を生んでいるのかもしれない」ずっとそんなふうに考えていた。 けれど、ある時ふと、「本当のところどうなんだ?」と思い立って調べてみた。 すると……驚きの事実が判明。 なんと、逆だった。 もち米には、うるち米に含まれている「ある栄養素」がないから、あの食感と白さが生まれていたのだ。 お米には「アミロペクチン」と「アミロース」という2種類のデンプンが含まれている。 うるち米はアミロペクチン80%、アミロースが20%の構成。 一方で、もち米にはこのアミロースがほとんど含まれておらず、ほぼアミロペクチンだけでできている。 たった20%の違い。 それだけで、あんなにも見た目も食感も違ってくる。 これは本当に驚いた。 「何かが多く含まれている」のではなく、「含まれていない」ことであのモチモチ感が生まれていたとは……。 もし、ふだんももち米を主食としていたら、うるち米のほうが「透明感があって、ちょっと固めで歯ごたえのある不思議な米」と感じていたのかもしれない。 日々意識していることがある。 それは、何事も一方向からだけ見ないということ。 「なぜだろう?」と問い直すことで、思い込みに気づき、本質が見えてくることがある。 人間関係だってそう。 「あの人はこういう人間だ」と決めつけるのではなく、自分が逆の立場だったら……と想像してみる。 ちょっと難しいけれど、それができれば、...

ものの見方を変えて考え方を変えてみる

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物事に対する見方や考え方を変えることは、人生において非常に重要なスキルだと思う。 我々人間の考え方は、多くの場合、過去の経験や周囲の影響によって作られている。 そのため、時には固定観念に縛られてしまい、新しい視点を持つことが難しくなることがある。 しかし、視点を変えることで、思いもよらない解決策や可能性が見えてくる。 例えば、失敗を恐れて新しいことに挑戦できない人でも「失敗は成長の一部だ」と考えるようになると、自然と新しい挑戦に対するやる気や意欲が湧いてくる。 この考え方の転換は、自己成長や成功への大きな一歩になると思う。 また、他者とのコミュニケーションにおいても、見方を変えることは非常に役立つ。 自分の意見に固執せず、相手の立場や考え方を理解しようとすることで、より建設的な対話ができ、誤解や対立をさけることができる。 具体的な方法としては、まず自分の思考パターンを客観的に見つめ直すことが大切だ。 その上で、新しい情報や異なる意見に積極的に触れることで、自分の視野を広げることができる。 例えば、異なる文化や背景を持つ人々との交流することは、新しい視点を得るための素晴らしい機会になる。 そして、変化を恐れず柔軟に考えることを心がける。 変化は時に不安を伴うが、それが成長や進歩のきっかけとなることを忘れてはいけない。 視点を変えて柔軟な思考を持つことで、有意義で充実した人生を送ることができる。 ものの見方を変えることで得られる心の軽さ ものの味方を変えることは、心理的な負担を減らす効果もある。 例えば、以前は腹が立っていたことが、見方を変えることで悩みやストレスが軽減したと感じる人も多い。 否定的に捉えていたことを、少し肯定的に見てみることで、新しい世界が開けるように感じることもある 柔軟な考え方や、時には「諦める」という選択が、その変化の鍵になると思う。 以下は、見方を変えることで心の負担が軽くなった例である。 人生 「いつも幸せでいなければならない」と考えていたが「最終的にはすべての人が死ぬ」という無常観に気づいたことで、今この瞬間を大切に生きることが最善だと思うようになった。 この考えはすべての人に当...

やる気を出して新しい体験を積み重ねる重要性

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子供の頃って、新しいことに対するワクワクや楽しさを毎日のように感じていて、何をするにも新鮮で心が躍るものがあった気がする。 だけど、大人になると、そういう感覚がだんだん薄れていって、何もかもが当たり前になってしまって、心の底から楽しめることも少なくなってきたように感じる。 なぜなんだろう……。 もちろん、大人になっても楽しいと感じることはある。 でも、子供の頃ほど新鮮さを感じられないし、心から楽しめことも減ってしまった気がする。 もしかして、経験を積んでいろいろなことが分かるようになると、予測がつくことが増えて驚きが少なくなってしまうのかもしれない。 それとも、大人になるにつれて純粋さが失われ、心がどこかでくもってきてしまったのかもしれない。 悪く言うと、感情が鈍ってきたから、なのかもしれない。 でも、だからといって、人生をただの惰性で生きていくのはもったいない。 なんというか、そのままじゃ人生がただただつまらなくなっていくような気がする。 このままだと、なんとなく楽しいけど、本当に楽しいのかどうか曖昧な感じで人生が終わってしまう気がして、なんとなくだけど不安を感じる。 そう思ったときに、やっぱり新しい体験や未知の世界に触れる機会を増やすことが大切なんじゃないかと感じるようになってきた。 もちろん、子供時代のような純粋な新鮮さを取り戻すことは難しいかもしれないけど、少しでも新しいことに挑戦することで、また違った新鮮な気持ちを味わえるかもしれない。 挑戦といっても、いきなり大きなことをする必要はない。 例えば、日常の中でちょっとした変化を加えてみるのもいい。 いつもと違う日用品を使ってみたり、普段とは違うスタイルの服を選んでみたり、新しい料理に挑戦してみたり、知らない街を訪れてみたりするのもいいと思う。 小さな変化が積み重なることで、新しい発見や驚きが生まれてくるかもしれない。 また、最新の研究では、脳は新しい経験を通じて成長し続けることが分かっている。 新しいスキルを学ぶことや、異なる文化に触れることは、脳の神経回路を刺激し、柔軟性を高めると言われている。 だから、日常に新しい体験を取り入れることで、思考や感性も豊かになり、より充実した人生を送る手助けになるかもしれない。 結局、毎日が充実した有意義なものになるかどうかは、自身の...

価値とは何か~人が創り出すものの本質

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道端に転がっている石ころに、「持っているだけで幸福が訪れるスーパーストーン」というキャッチフレーズをつけ、それを100円くらいの値段で売ってみる。 もし買った人が、望んでいたような幸福を得られなかったとしても、「まあ、100円だし」とあきらめるかもしれない。 けれど、もしそれを1万円で売ったとしたら……期待が大きくなるぶん、効果が感じられなければ「これは詐欺じゃないか?」と思う人も出てくるかもしれない。 この例からもわかるように、人は「価格」によって、その物の価値を感じやすい傾向があるのかもしれない。 高いから良いものに見えるし、安いとたいしたことがないと思われがちだ。 「そんなものには引っかからない」と思う人もいるだろうが、実際の世の中には、もともと価値がなかったものに「価値がある」と誰かが言っただけで、驚くほど高額で売れてしまうものがたくさんある。 価値は植えつけられる 物心がつく前の子どもは、たぶん「価値」というものをまだ知らない。 ただ、本能的に母親や世話をしてくれる人に安心や必要性を感じるくらいだろう。 でも成長していくうちに、周囲の大人たちの反応や社会の空気を通して、さまざまなものに「価値」があると学んでいく。 もともと自分にとってどうでもよかったものにも、「これは大事なんだ」と刷り込まれる。 そうして価値観は少しずつ形づくられ、人それぞれ違った「大切なもの」を持つようになる。 価値の決まり方 世の中では、「誰でもできること」「すぐ手に入るもの」「劣化しやすいもの」には、価値がつきにくい。 逆に、「時間がかかる」「手間がかかる」「希少性がある」「特別な資格が必要」などの条件がそろうと、高い価値がつく傾向がある。 こうした基準で、世の中のものやサービスの価値は決められている。 虚構の価値に支えられた社会 千円札には「千円の価値がある」と信じているからこそ、みんなが使っている。 でも、よく考えてみれば、紙切れ一枚が千円の価値を持つなんて、不思議な話だ。 物の値段は、原料の入手しやすさ、作るまでの手間、流通経路などによって決められている。 けれど、それらの基準自体が人間が勝手に作ったルールにすぎない。 つまり、絶対的な価値なんて、どこにも存在しない。 それでも、みんながその「虚構の価値」を信じているからこそ、社会は成り立っている。 価...

電気に頼らない生活の挑戦と災害への備え

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電気に頼らない生活を目指すといっても、今の生活環境ではどう考えたって難しいことのひとつに数えられる。 しかし、東日本大震災の時に停電になり、電気の使えない生活をしばらくのあいだ余儀なくされた。 この経験から、どれだけ電気に依存しすぎていたことも分かったし、短期間であれば電気が使えなくても何とか生きていけるということも実感した。 ただし、現代の生活では電気が必要不可欠であることも同時に痛感した。 電気がないと水道の供給や病院の医療機器にも影響が出てしまい、長期間の停電は大きな困難をもたらす。 現代社会では多くのインフラやサービスが電気に依存しており、無いと困るのも事実であることを再認識した。 人間が生きていくのに電気というものは必要不可欠なものなのかもしれない……。 電気がないと動かないもの達 現在、家の中で電気がないと稼働しないもので生活に必要なもの、照明・冷蔵庫・洗濯機・エアコン・炊飯器・電子レンジ・掃除機・ファンヒーターなど……。 情報を得るための媒体、テレビ・ラジオ・パソコン・タブレット・スマートフォンなど……。 その他にも、ドライヤー・プリンター・DVDプレイヤーなど、探せばまだまだあると思う。 こうやってみると人間は、電気がないと稼働しない電化製品というものに支配されているようにも感じる。 なにかひとつでも欠けたら不便だと感じてしまうだろう。 あとは、完全に電気に支配されているオール電化住宅なんてのもある。 今ある電化製品と代替できるものを探す 電気がない時代があったんだから代替できるものは必ずあるはず、と思いながら探してみたけど、たいしたものは思いつかなかった。 照明の代わりになるもの、ロウソクぐらいしか思い浮かばないけど東日本大震災の時は乾電池のストックがあったので夜は懐中電灯で過ごした。 冷蔵庫の代わりになるもの、クーラーボックスに氷を入れるくらいしか思い浮かばないけど、そもそも氷を作るのにも電気が必要、真冬だったら必要ないけど。 洗濯機の代わりになるもの、タライで手洗い、レベルアップしたら洗濯板を使う。 エアコンの代わりになるもの、ウチワが最適。 炊飯器の代わりになるもの、ガスが使えれば心配ない...

ミニマリストになりたいのに物が捨てられないのはなぜ?

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ミニマリストになりたいんだけど……。 👀「ふ~ん、なればいいんじゃないの」 とは言っても、なかなか物が減らないんだよな~。 👀「ふ~ん、減らせばぁ~っていうか、ミニマリストっていったい何なの?」 少ない持ち物で充実した生活を送ること、だったと思うんだけど。 👀「じゃあ、かたっぱしから捨てていかないと、もうすぐゴミ屋敷になっちゃうよ」 でも、もったいないしな~。 👀「あ、もしかして、もったいないお化けにでも取りつかれたの?」 ミニマリストに対して持っているイメージ お金に余裕がある。 お金に余裕があるので心にも余裕がある。 心に余裕があるから必要なものと不必要なものを判断できる。 判断できるから無駄なものを買わないで、本当に必要で良い物を購入する。 本当に必要で良い物なので大事にする。 大事にして長持ちするので生活にお金がかからない。 最初に戻る。 なんとなくだけど、ミニマリストになれば好循環が訪れて、人生まで良い方向に向かっていく、そんなイメージがあるだけどな~。 👀「だ、か、ら、なればいいのに」 ミニマリストになるのを邪魔する考え 自分の持ち物はたくさんある、っていうか、あり過ぎる。 使っていない物もたくさんある。 クローゼットにはいちども着てないけどいつか着るかもしれない服、本棚にはいちども読んだことがないけどいつか必要になり読むときがくるかもしれない本、あとは、小物類を入れるケースは未だに空である、その他に得体の知れないものがわんさかある。 今まで着ていなくても、これから着るかもしれない服を処分してしまったら同じ服を買うのにお金がかかる。 今まで読んだことがない本も、いつか必要になるときがきて読みたくなるかもしれない。 今まで何も入れたことがないケースでも、これから片づけをしようとやる気が出たときに、入れ物がなかったらせっかくのやる気も失せてしまう。 得体の知れないものは得体の知れないものだから触れたくもない。 これらは来るか来ないか分からない未来のために、処分することをためらっているだけなのだが……。 そして、たまに片付けをすると、存在すらも忘れていた物が出てくるときがある。 ...

他人を見返してやるための怒りとやる気

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たまにだけど、過去の人間関係で腹の立つ出来事を思い出したとき、純粋な怒りが湧いてくることがある。 これは、過ぎ去った過去だからこその現象で、もしその過去から未来への影響を考え出してしまうと、単なる怒りから不安へと変わり、心に重荷がかかる。 だから純粋な怒りにはならない。 『純粋な怒り』って、どう説明したらいいかわからないけど、心が重たくならず、ただただ頭の中で怒りだけが渦巻いている状態だろう。 睡眠中の反芻(はんすう)は、怒りと不安が混じり合って心が疲弊して眠れなくなる。 でも、純粋な怒りだけなら、心の負荷はないから、ストレスとは違うものなのだ。 その純粋な怒りの先には、『見返してやりたい』という思いがある。 そして、自身の劣等感がその引き金となる。 だからこそ、単なる怒りではなく、『成長して相手を超えたい』という強いエネルギーが生まれるのだ。 その怒りが湧き上がると、不思議と『やる気』も一緒についてくる。 体がスタンバイの状態となり、後回しにしてきた面倒なことも、思わず手をつけたくなることがある。 しかもそのとき、見返してやりたい事柄と直接関係がないことでも、勢いで片付けられるから面白い。 ほとんどの人間は、他人よりも優位でありたいという生存本能を持っている。 単なる劣等感だけなら落ち込みで終わるだけだけど、『見返してやる』となれば成長が求められる。 つまり、純粋な怒りが成長への扉を開いてくれるのだ。 過去の屈辱、悔しさ、恥ずかしさを思い出したとき、もし純粋な怒りが湧き出してきたなら、それは単なるネガティブではない。 『強く、豊かに生きたい』という、自身の未来へのメッセージなのだ。 その怒りをうまく活用できれば、多様な挑戦ができ、自身の成長につながる。 もしかしたら、怒りという感情は単なる『闘争本能』ではなく、成長や進化を後押しする『生存本能』なのかもしれない。 そうして成長し、やがて寛大で心豊かな人となれば、過去のつまらない出来事など笑って受け流せるようになる。 いや、純粋な怒りの力で『人生を有意義』にできれば、それこそ最高の勝利なのではないだろうか。 イラスト:gontyan 投稿:2021.10...

依存とやる気の関係

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「依存が人間にとって必要かどうか」は、意見が分かれる問題だと思う。 依存とは、何かに頼らなければ生きていけない状態のことを指す。 たとえば、極端なケースではギャンブル依存症やアルコール依存症のように、日常生活に支障が出るレベルにまで悪化してしまうこともある。 けれども、依存そのものがすべて悪いわけではない。 たとえば、子供の頃は親に依存しなければ生きていけないし、大人になっても社会や仕事、お金、家族などにある程度の依存は避けられないと思う。 人間は、もともとひとりでは生きられない存在だ。 だからこそ、家族や友人、恋人、ペットなど、何かに支えられていること自体は悪いことではない。 むしろ、心の安定や健康のために大切なことでもある。 無意識の依存が生む落とし穴 問題なのは、自分でも気づかないうちに依存が深まってしまうことだ。 たとえば、会社に強く依存している人がいるとする。 その人は「仕事つまらない」「給料が安い」と愚痴をこぼしながらも、「仕方ない」と諦めて会社にしがみついてしまう。 転職や環境改善のための努力もせず、現状を受け入れるだけになると、やがて不満は自分の中だけでなく、家族や同僚など周囲にも悪影響を与え始める。 依存は、安心感や一時的な安定をくれる一方で、自分の行動力や選択肢を奪ってしまう側面もある。 自分が何に依存しているかを知ること 「依存=悪」だと一括りにすることはできないけれど、自分が何に依存しているのかを知っておくことは大切だと思う。 もしその依存対象を失ったとき、自分はどうなるのか?、それを想像しておくだけで、必要以上に依存に縛られずにすむし、精神的にも安定しやすくなる。 たとえば、親やパートナーの評価、職場からの承認だけに頼っていると、それがなくなったときに心が折れてしまうことがある。 そうならないためには、自分自身を支える力を少しづつでも育てていくことが大切なのではないだろうか。 自分を支える力を育てるためにできること 依存から少し距離を取るための具体的な方法もある。 たとえば、 ・他人の評価だけに頼らず、自分で自分を認める練習をしてみる ・何かに頼る前に、自分でできることはないかを考えてみる ・「どうしたいのか?」を自分自身に問い直してみる そうした小さな積み重ねが、精神的な自立へ...

オタマジャクシから学ぶ自然と人生の不確実性

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かつて水たまりがあり、その中央付近のいちばん底が深かった場所に、オタマジャクシたちは寄り添うような形で死んでいた……。 これまでも死んだオタマジャクシを何度も見たことがあるけれど、今回の出来事はちょっと考えさせられてしまった。 自然界にいる生き物たちは環境の変化に影響を受けてしまうのだが、今回の件は運の要素を強く感じてしまった出来事だったからである。 なので、運に支配されている人間も例外ではないと思ってしまった。 梅雨時、毎日のように小雨が降り続いていたときの話。 水たまりがあり、毎日の雨のおかげでたまった水が無くならない状態が続いていた。 ある日、何かが動いているのを発見。 ボウフラでも繁殖しているのかと思いきや、なんとオタマジャクシだった。 親カエルはこんなところに卵を産んでいったらしい……。 ふ化したばかりだろうか、チロチロと泳いでいる。 こんな水たまりなんか雨が降らなくなったらすぐに蒸発するか、土に染み込んで水がなくなってしまう。 それに、食べるものもないのですぐに死んでしまうだろう程度に思っていた。 なので気にもしなかった。 しかし、その年の梅雨は水たまりを維持するかのように毎日、雨が降り続いた。 たまに見かけるたびにどんどん大きくなっていくオタマジャクシ。 最初はチロチロと泳いでいたオタマジャクシは狭い水たまりの中でウヨウヨとひしめき合いながら泳ぐくらいにデカくなっていた。 ここで疑問が湧いてきた、何を食べて大きくなったんだろう……。 微生物?それとも土から染み出した養分、もしかして雨の中に何かしらの栄養素があるのだろうか……。 気になったので調べてみたら蛙は昆虫などを食べる肉食だが、オタマジャクシ時代は草食らしい。 草食?……。 だとするとその水たまりには、雨雲で太陽の光が遮られた状態でも、わずかだが苔が生えていることになる。 それをみんなで食べて大きくなった、ということになる。 この大きさなら間もなく足や手が生えてくるし、えら呼吸から肺呼吸に変われば、いつ水が無くなるかもしれない不安定な水たまりから卒業していくことができる。 あともう少しの辛抱でカエルになれる。 毎日降り続いていた雨もいつの間にか止んで...

円状交差点のスムーズな通行法と注意点

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この円の形をした交差点は 環状交差点 とか、 ラウンドアバウト などと呼ばれている。 初めてこの交差点を通過したときは、なんて画期的な交差点なんだ、と思ったことを覚えている。 この 環状交差点 には、なんと…… 信号機 が存在しない、そして、 止まれ の標識すらも存在しないからである。 が、その代わりに路面に ゆずれ と書いてある、えっ、何をゆずるんだろう?……。 パッと見はたいしたルールがなさそうだが、いちおう安全に走行するためのルールが設けられている。 まず 環状交差点 に近づいたら左側によって徐行する。 交差点内で走行している車が優先になっているので、走行の妨げになりそうなら一時停止する。 そのための ゆずれ であった。 もちろん人や自転車などがいたら一時停止するか ゆずれ である。 交差点内は時計回りの一方通行なので、進入するときはウインカーは出さなくてもいいことになっている、なぜなら、一方通行だから、だが普通にウインカーを出して進入するドライバーも見かける。 たまにだが無意識に自分もウインカーを出して侵入しているときがある、交差点内は危険なので注意を怠らないようにしないと……。 そして進入した後は、出ていきたい方向にある道路の直前でウインカーを出し、交差点を出るまで点滅を継続させながら出ていく。 う~ん、スムーズだ。 と、思っていたが何度も通過していたら、なんかめんどくさいと思うようになってきた。 それはハンドルを切る回数。 左方向に行きたいときはまだいいとする、左にハンドルを切ってチョット戻してまた左にハンドルを切る、なれると特に問題はない。 ここからがめんどくさい。 直進方向に進みたいのに左にハンドルを切る、そして戻して今度は右にハンドルを切る、そして戻してウインカーを出して今度は左にハンドルを切って交差点から出ていく。 作業量が多過ぎる。 そして右方向に行きたいときも最初は左にハンドルを切る。 ここでくじけてはいけない、戻してから右に切る、そして出ていきたい道路までその状態をキープし、戻したらウインカーをあげて左にハンドルをきり脱出する。 ふぅ~疲れた。 このウインカーを出すタイミングがハンドルを戻して...

欲を捨て無欲になりたいと思うのも欲

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「欲を捨てて無欲になりたい」と思うことがよくある。 物質的な豊かさや名声を追いかけることに疲れ果て、もっとシンプルに、静かに生きていきたいという気持ちの表れなのかもしれない。 心の平穏を求める気持ちは、多くの人が一度は抱くものだろう。 でも、ふと思う「無欲になりたい」というこの思いも、実は欲のひとつなのではないか?……と。 欲とは、「何かを求める心の動き」だ。 たとえそれが「何も求めないでいたい」という願いであっても、その状態自体を求めている限り、それは「無欲という名の欲」だと言えるのかもしれない。 欲は、人間にとってのエネルギー源 人の欲にはいろんな種類がある。 体が求める食欲や睡眠欲は、生きるために誰にでも共通してあるものだ。 けれど、心が求めるもの――安心、承認、愛情、成功――そういったものは人それぞれ違っていて、人間の数だけ欲望があると言ってもいい。 欲があるからこそ、人は動ける。 働き、学び、関わり、何かを目指すことができる。 実際、すべての生き物は、欲によって生命を維持し、種を存続させている。 食欲がなければ生きていけないし、性欲がなければ人類は続かない。 物欲があるから経済も回っている。 ただ、人間は社会という複雑なルールの中で生きているからこそ、自分の欲を「適切にコントロールする力」が求められている。 しかし実際には、バランスを取るのはとても難しい。 なぜなら、人間は本能的に欲を持っている存在だからだ。 理性でコントロールできると頭ではわかっていても、感情や衝動が先に動いてしまうことはよくある。 欲を捨てることはできるのか? 正直に言って、これはとても難しい課題だと思う。 「人と比べるのをやめよう」「足るを知ろう」――どれもよく聞く言葉だけれど、実行するのは簡単ではない。 むしろ、「欲を捨てよう」とすること自体が、自分に無理を強いている気がすることもある。 それでも、「欲に振り回されるのはもう嫌だ」という思いが強くなり、無欲を求める。 けれどそれもまた、欲の一形態に過ぎないと気づいてしまう。 とはいえ、人には時折、欲を手放せる瞬間がある。 それは、多くの場合、「欲望に突き動かされて失敗したあと」にやってくる。 欲を追いかけすぎてうまくいかなかったとき、「もういいや」と心の底から思えるようになる。 そこで初め...

魂の存在とその意味を考える

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ある日、ふと思ったことがある。 魂とはいったい何だろうか……。 存在するのか、それとも存在しないのか、どちらともいえない不思議な存在。 魂は、生きている間は体に宿り、死ぬと体から抜け出すとされている。 でも、生まれる前や死んだ後の魂については、多くの説があり、何が真実なのかは誰にも分からない。 魂の本当の意味は「精神的実体」という概念らしい。 でも、この「概念」という言葉自体が曖昧で、「みんながそう認識している」だけであって、本当に存在しているかどうかは、やっぱり分からない、ということでもある。 考えれば考えるほど、分からないことばかりだ……。 もし魂が本当に存在しているとしたら、どんな感じなのだろう。 なんとなくイメージしてみたけど、無色透明の球体のようなものしか思い浮かばない。 その球体が人間の体に宿ると、その人間の人生のすべてが、どんどん詰め込まれていくような感じがする。 でも、ふとこんなことも思った。 人間関係のストレスが溜まりすぎていたら、その魂は真っ黒でドロドロしたものになってしまうんじゃないかって。 そして、その魂が宿った人間の生命活動が終了した時点で、魂はリセットされて元の状態に戻る。 そうして、また次の宿主を探すんじゃないか――そんなふうにも思えた。 リセット?……う~ん、そうだと思うけど、これも仮説にすぎない。 もしかしたら、前世の記憶や因果関係が後世にまで影響を与えるのは、リセットのときに何らかの障害が起きて、記憶や感情が完全には消されずに残ってしまうからなのかもしれない。 怨念のようなものも、そうして生まれるのだろうか……。 でも、これも実証されたわけではないし、真実はやっぱり分からない。 この世は魂の修行の場なのか? この世は「魂の修行の場」だと聞いたことがあるけれど、それがどういう意味なのか、少し考えてみた。 魂というのは、物質ではない高位な存在のはず。 それなのに、なぜわざわざこの下位の物質世界に来て、わざわざ苦しんだり、もがいたりしなければいけないのか?……そんな疑問が湧いてくる。 もし魂の成長が目的なら、もっと高い場所での修行の方がいいんじゃないだろうか。 この現実世界がもし“駄目な場所”だとしたら、そんなところで修行しても魂まで駄目になってしまいそうな気もする。 だけど、逆に考えると……この世は魂をふるい...

あらゆる人間に平等に訪れるもの

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この世には「平等」という美しい言葉がある。 しかし現実の社会で、その言葉の意味を実感するのは、決して容易ではないと思う。 貧富の差、社会的な立場の違い、才能や環境といった生まれ持った要素。 我々の暮らすこの世界は、あらゆる面で「不平等」に満ちている。 どれほど平等な社会を理想として掲げても、それを完全に実現するのは限りなく難しい。 というより、おそらく不可能に近い。 その理由のひとつには、人間が本能的に「生存競争」の中で、他者よりも優位に立とうとする性質を持っていることがあるのかもしれない。 しかし、そんな中でも、どんな人間にも等しく訪れる「本当の平等」が存在する。 それが、「時間」「変化」、そして「死」という3つのものだ。 時間の平等──1日24時間をどう生きるか? 「時間」は、唯一、すべての人間に平等に与えられている資源だと思う。 1日は24時間、1年は365日。この時間の単位は誰にとっても変わらない。 しかし、 その時間をどう使うか は人それぞれ。 同じ24時間でも、それを努力や挑戦に使う人もいれば、何となく流されて過ごしてしまう人もいる。 時間は止まることなく流れ続け、決して過去に戻ることはできない。 その有限性を意識するからこそ、我々は「時間の使い方」に悩み、工夫し、より良い毎日を送ろうと努力するのかもしれない。 変化の平等──人生における「変化」をどう受け入れるか? そしてもう一つの平等が「変化」だ。 どれだけ地位や環境が安定しているように見える人でも、変化から逃れることはできない。 季節が移り変わるように、人生もまた絶えず流れ、体も心も少しずつ変化していく。 新しい出会いや別れ、思わぬ成功や予期せぬ挫折。 変化は我々を喜ばせることもあれば、深く苦しめることもある。 それでも、「変化の中でしか学べないこと」があり、「変化を通してしか成長できない自分」も存在する。 変化に翻弄されるのではなく、変化を受け入れ、それと共に生きることで、人はより深く人生を味わうことができる。 死という究極の平等──死を恐れず、生を深く生きる そして忘れてはならないのが「死」だ。 これは、すべての人間に等しく訪れる、 究極の平等 である。...

「正範語録」という格言をアレンジして人生の役に立てる

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人間関係の悩みは、どの時代においても常に存在する。 人間が生きている限り、これらの悩みは消えることはない。 そして、人生は常に挑戦の連続である。 過去の先人達は、少しでも生きやすくなるようにと、素晴らしい格言を残してくれた。 その中で、特に共感し、人生の指針として役立てているのが「正範語録」である。 「正範語録」 実力の差は努力の差 実績の差は責任感の差 人格の差は苦労の差 判断力の差は情報の差 真剣だと知恵が出る 中途半端だと愚痴が出る いい加減だと言い訳ばかり 本気でするから大抵のことはできる 本気でするから何でも面白い 本気でしているから誰かが助けてくれる これらの言葉は、それぞれ深い意味を持っているが、以下のようにアレンジを加えて人生の指針としている。 自身の経験や価値観が反映しており、オリジナルの格言に新たな意味を加えている。 1 行目の「実力の差は努力の差」という言葉は、努力を積み重ねた人間と、そうでない人間の間には明確な実力の差が生まれることを指している。 努力は積み重ねて初めて実力となり、自信にもつながっていく。 2 行目の「実績の差は責任感の差」とは、責任感を持って取り組むことで実績がついてくる事を意味している。 誠実に物事に向き合うことで、信頼と実績を築くことができる。 3 行目の「人格の差は苦労の差」とは、困難を乗り越えた経験が人間の器を大きくすることを示している。 寛容さや深い理解力が養われる。 4 行目の「判断力の差は情報の差」という言葉については、「判断力の差は経験の差」と解釈し直した。 情報は重要だが、それを適切に判断するには経験が不可欠だと思ったからだ。 1行目から4行目までは他人との比較になっていて、なにかをやった分だけ顕著に違いが表れるという分かりやすいたとえ。 5 行目の「真剣だと知恵が出る」とは、集中して取り組むことで新たなアイデアや解決策が生まれることを意味している。 自分は、たまにしか改善点が思い浮かばないので真剣さが足りてないの...

騙されないために意識する「仮置き」

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騙されるとは嘘をつかれることである。 嘘をつかれ陥れらることであり、騙されてしまうとお金や物・時間まで失ってしまい、最終的には心にまで大きなダメージを受けてしまう。 腹が立つのと悔しいのと愚かさで心がいっぱいになってどうしようもなくなる。 騙されて被害にあい、精神的苦痛を受けないためにはどうすればいいのか?。 やっぱり自分以外の人間をむやみに信用したり信頼したりしないこと、それしかないと思う。 かといって誰も信じたり頼ったりしなければ、人間社会を生きていくのが困難になってしまう可能性もある。 人間はひとりでは生きていけない。 なので、騙されても影響がないと思われる範囲、自らがリスクを負っても致命的なダメージにならない範囲を予め設定しておく。 それ以外は「仮置き」をするように習慣づける。 仮置きとは、誰かに言われたことやメディアから知りえた情報を頭の中に一時的に置いておき、すぐには信じたり信頼したり、果ては行動に移さないようにすること。 信じるのではなく、そういうこともあるかもしれない程度の記憶にとどめておく。 すると、自分以外のすべての人間が発している情報などは鵜呑みにしなくなる。 どうでもいいことは忘れてしまっても構わないが、気になるようなら信憑性を確かめる。 いろんな人間に聞いてみたり、ネットで検索してみたり、本で調べてみるなどして同じ答えがあったのなら正解に近いと思う程度でいいと思う。 自分以外の人間が作り上げた虚構など、信じるに値するかどうかの判断は最終的には自らが決めなければならない。 誰かが言っていたから、誰かに勧められたからと、他人のせいにしていたらいつまでも同じ過ちを繰り返すことになる。 信じると決断したのは紛れもなく自分自身だということを忘れないようにする。 自分以外の人間やメディアに騙されたことがあるなら、まずは情報を頭の中に「仮置き」してみる、その後に信憑性をたしかめる、そして安心してから行動するようにすれば、騙されたということは極力少なくなると思う。 それでも人間関係では様々なことが起こりえる。 何かを頼まれたら、そのリスクを背負う覚悟がなければ引き受けてはならない。 特に、しつこく進めてくる事柄には要注意...

会社を辞めると言った人間を引き留めるリスクと職場への影響

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多くの人間が会社などに務める中、退職を決断する際には、それ相応の理由と覚悟があるはずである。 しかし、退職を宣言しながらも、結局はそのまま働き続ける人間がいるのも事実だ。 こうした現象はどの職場でも一定の割合で見られ、周囲に少なからず影響を与えることがある。 まず、退職を表明した社員が引き留められると、他の社員はその人間に対して不信感を抱いてしまう。 なぜなら、辞めると言っておきながらその言葉を覆す様子は、周囲から口だけで行動が伴わない人間と見なされ、信頼が揺らいでしまうからである。 さらに、引き留める過程で特別な待遇や条件の改善が行われた場合、他の社員との間に不公平感が生まれやすくなってしまう。 この不公平感は、特に同じように不満を抱える社員たちに、自分も同じことをすれば待遇が改善されるのではないか、という期待を抱かせ、職場全体を不安定に陥れる危険性をはらんでいる。 また、引き留められた社員自身も、再び退職を考えることが少なくない。 引き留めによって一時的に職場に留まるものの、根本的な問題が解決されていない場合、再び不満が募り、結果的に職場の士気が低下する要因になる。 こうした不安定な状態が続くと、職場全体のチームワークや連帯感が損なわれ、業務の効率や生産性が低下するリスクが高まってしまう。 特に深刻なのは、引き留められた社員が特別扱いされていると感じ、他の社員との間に亀裂が生じることである。 この亀裂は、チーム内の分裂や派閥形成の原因となり、職場全体の雰囲気を悪化させる要因となりえる。 こうした状況が長引くと、職場の士気が低下し、信頼関係が損なわれることから、最終的には職場全体が不安定に陥る可能性が高まってしまう。 結論として、辞めると宣言した社員を引き留めることは、短期的には一部の問題を解決するかもしれないが、長期的には職場の雰囲気を悪化させるリスクが高いといえる。 職場全体の長期的な健全性や長期的な利益を守るためには、社員ひとりひとりの言動や決断に対して慎重な対応が求められる。 引き留めるかどうかの判断は、表面的な利益だけでなく、職場全体の長期的な安定と信頼関係を考慮した上で行うべきである。 食肉加工工場...

恥ずかしい感情というのは人間だけにあるの?

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なんか、恥ずかしい……。 👀「はあ?いい歳こいて何恥ずかしがってんの!」 子供の頃はいろんなことで恥ずかしいって感じてたけど、大人になってからも恥ずかしいって感じることがたくさんあるんだ。 👀「へぇ~そうなんだ」 そういえば、他の生き物に対して恥ずかしい気持ちになったことはないし、他の生き物が恥ずかしがってたのを見たことがないんだけど……。 👀「確かに、恥ずかしがっている生き物は見ないね」 ということは人間にしか持ち合わせていない人間特有の感情ということになる。 👀「う~ん、そうかも」 そして、人間が社会で生きていくために必要不可欠な大事な感情のような、そんな、そんな気もする。 👀「大袈裟だな~なんかこっちが恥ずかしくなってきた」 ひとりひとり違う感情 いつも思うんだけど、人間の感情くらい不確定で不安定なものはないと思う。 そして、他人と自分の感情の感覚が本当に同じようなのかはハッキリ言って分からない。 なので、顔の表情や言動から推察し、これまで経験したことがある自分の感情の感覚と照らし合わせてから、たぶん同じだろうと判断するしかない。 この感覚のズレが人間関係を煩わしくしている原因かもしれないけど……。 なので、自分が感じる恥ずかしいという感情と、他人が感じる恥ずかしいという感情が本当に同じような感覚なのかは分からないので、自分の経験した感覚から考えてみるしかない。 👀「おおっ!」 価値観を植え付けられる 子供の頃の記憶を思い返してみると、う~ん、家族や周りの人間からこういうことは恥ずかしいことだと言われてから恥ずかしいと感じるようになったのか、それとも自然に恥ずかしいと感じるようになったのかは思い出せない、ていうか覚えていたら凄い。 なんとなくだけど、人間社会という集団の中で生活するための最低限のルールみたいなものがあって、こういうことは恥ずかしいこと、という家族や周りの人間の持つ価値観を植え付けられてから、のような気がする。 たぶん、そうだと思う。 なので、このころに恥ずかしいの基礎的なものができあがっていったと思う。 た...

マウントを取る人の会話パターンに気づいた話

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たあいもない会話でも、マウントを取ろうとしてくる人間や、マウントを取った気になっている上から目線の人間というのは、ある共通した“否定の言葉”を使っていることに気づいてしまった。 それまではただの違和感として受け取っていたけれど、よくよく観察してみると、やはり一定のパターンがあるようだ。 はたして、マウントを取ろうとする人間が、あるある的に使いがちな言葉とは、どんなものなのか?……。 それは、「違う」「でも」「いや」といった、会話の冒頭に差し込まれる否定の言葉。 こちらの話を聞いた直後、これらの言葉を口癖のように挟んでくる人間がいる。 もしもこちらの言っていることが事実と異なるのであれば、「それは」「これは」「あれは」と言いながら冷静に説明してくれれば済む話。 でも、彼らはわざわざ否定から入ってくる。 最初は気にしないようにしていても、あまりにも毎回否定されると、だんだん腹が立ってくるし、もう話したくなくなる。 そういう人に限って、日常的に嫌味を言ったり、陰口を叩いたり、愚痴をこぼしたり、わざと反対のことを言ってきたりする。 もはやこの時点で、「できれば関わりたくない人リスト」に追加されてしまう。 「気にしなければ気にならない」――そんなの分かってる。 けれど、気になり始めたら最後、もう会話自体がしんどくなって、気分までも悪くなってくる。 さらに厄介なのは、それによってやる気すら削られてしまうことだ。 実際、聞いている側は、何度も否定されることで自尊心がじわじわ削られ、ストレスが溜まり、心身にまで影響が出ることもある。 最終的には、人間関係の悪化につながる可能性も十分にある。 そして、ここが特に重要な点なのだが――こうした人たちは、話の「内容」を否定しているのではなく、「相手そのもの」を否定して、自分が上に立ちたいだけというケースが少なくない。 もちろん、そこに信頼できる根拠なんて存在しない。 もしもそんな人の言うことを鵜呑みにしてしまうと、特に仕事関係では危険だ。 たとえば、以前言っていたことと今回言っていることが矛盾していたりして、こちらが「この前と話が違う」と指摘すると、「そんなこと言った覚えがない」としらばっくれたりする。 そういう場面で、自分も痛い目を見たことがあるし、他人が混乱しているのを目にしたこともある。 だからこそ、こうい...

物質としての人間と心のケア~五感を通じた健全な生活のすすめ

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この世界のすべては物質でできている……だから、人間もその一部として物質で構成されていると考えるのが自然だと思う。 そう考えると、心や精神もまた、物質でできた人間の「脳」という器官が生み出すものだと言えるかもしれない……現代の神経科学もこの考えを支持しているようだ。 つまり、脳の働きが感情や思考を生み出しているということである。 しかし「心」をただの物質的な反応と捉えるのは少し難しい部分もある。 だからこそ、心の現象は物理的な範囲を超えているのではないかと考える研究も行われている。 人間の体に魂があるから心が存在するのではなく、むしろ、魂という考え方は、我々が意識や自我をどう感じるかを説明するためのものであるかもしれない。 つまり、魂の存在は科学的に証明することはできないということである。 これは、宗教的や哲学的な問いに属するのかもしれない……。 目に見えないエネルギーが人間に影響を与えているという考えもあるが、そのエネルギーが何なのかはまだ科学では解明されていない。 しかし、それを完全に否定する証拠もないため、何らかの形でそのエネルギーが影響を及ぼしている可能性は否定できない。 人間の体が食物からエネルギーを得ているのは確かだ。 だから、人間が物質からできていると考えるのは自然なことだと思う。 そして、物質でできた脳が心を作り出していると考えると納得できる。 この視点から、体と心のどちらを優先してケアすべきかという問いが生まれたのである。 これは「卵が先か鶏が先か」という議論に似ている。 健康な体が健全な心を育むのか、あるいは健全な心が健康な体を作るのか……どちらも大切だが、どちらを優先すべきかは簡単には言い切れない。 でも、やはり物質の世界に生きている以上、物質を優先するのが自然ではないかと思う。 なぜなら、心に影響を与えるのは物質的な世界から得る情報だからだ。 人間は五感を通じて情報を得ている。 第六感があるかもしれないけれど、自分はそれを感じたことがないので、ここでは五感に焦点を当てて話を進めたい。 受精後に細胞が分裂して体が作られていく過程で、心も一緒に作られていく。 そして、その心は体の状態に大きく左右される。 もし体のど...

他人の言動に腹が立つときに役立つ古い諺の知恵

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他人の言動に腹が立ったときって、どうしても感情に振り回されちゃうってことがよくあるんだよね。 👀「ふ~ん、でも、そんなときこそ心を落ち着かせたほうがいいと思うけど……う~ん、例えば、諺とかに耳を傾けてみるのも、もしかしたら有効に働くかもしれないよ」 諺に耳を傾ける?……。 👀「そう、古くから伝えられてきた知恵の言葉は、感情の渦中で冷静さを取り戻す手助けになるんだよ、昔の人たちは同じような感情や状況を経験して、その中で生まれた知恵が諺に詰まっているんだ」 ふ~んそうなんだ、それで、どんな諺が効果があるの?。 👀「まず思い出したいのは『蓼食う虫も好き好き』という諺で、蓼(たで)という辛味のある草を好んで食べる虫もいるように、人の好みや考え方は千差万別であるという意味だよ、他人の言動が自分にとって不快でも、相手には相手なりの理由や考え方があるのかもしれないしね、この諺を思い出すことで『自分と違うからこそ腹が立つ』という視点から『自分と違うからこそ面白い』という新たな見方に転換することができるかもしれないしね」 う~ん、なんとなくは分かるけど、まずは先入観を払拭してからじゃないと視点を変えるのは難しいね。 👀「それは確かにそうだね、先入観があると、どうしても腹が立ちやすくなる、でも次に紹介する『人を呪わば穴二つ』という諺も心に留めておくべきだね、これは、他人に対する怒りや憎しみは最終的に自分自身にも悪影響を及ぼすという意味だよ、相手の行動に腹を立て、その感情に囚われてしまうと、自分自身の身も心も傷つけることになるんだ、怒りに任せて行動すれば、その結果を受けるのは自分自身なんだよ、この諺は、怒りが持つ破壊力を思い出させ、冷静な行動を促す戒めになるんだ」 うっ、なんか身に覚えがある……やっぱり、感情に振り回されると後で後悔することが多いからなぁ……。 👀「そうだよね、そういう経験ってあるよね、でも、その感情を上手にコントロールするためにもうひとつ、『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』という諺もあるよ、もし他人の言動に腹を立てた原因が、自分の誤解や知識不足から来ているのだとしたら、感情的になる前に、その真意を相手に尋ねてみるのもひとつの方法だね、ちょっと勇気がいるけど……でも誤解が解けるこ...

「運も実力のうち」の意味と自己成長

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「運も実力のうち」という言葉を聞いて、最初は違和感を覚えたことがある。 運と実力、まるで対極のもののように感じるからだ。 しかし、よく考えれば、単なる偶然以上の意味が隠されているのかもしれない。 運とは、自身の意志や努力で左右できない巡り合わせ。 一方、実力とは、自身の経験、能力、そして努力から生まれる力だ。 一見、対立しているものの、「運を味方につける」「運を引き寄せる」という表現もある通り、多くの成功者たちは、運を巻き込みながら結果へと繋げているようにも感じる。 運だけでは成功できない理由 もちろん、運だけで成し遂げられる成功は長続きしない。 裏側には、長期的な努力、着実な成長、具体的な行動が潜んでいる。 一発勝負で幸運を掴めても、実力が伴わないと次の一手でつまずいてしまうことがほとんどなのかもしれない。 心理学からのヒント 心理学の研究でも、自身の成功を単なる運と捉え過ぎると、自己効力感が低下し、次の挑戦への意欲が減退することがわかっている。 一方、「運も実力の一部である」という考え方を身につけると、自己成長の意欲が高まり、困難に直面しても粘り強く立ち向かう力となる。 やる気が運を引き寄せる 運だけを頼りにせず、やる気や成長への姿勢を大切にしたい。 やる気があるとき、人は新しい知識や技術を身につけ、予期せぬ幸運も引き寄せやすくなる。 運が逃げていくように感じるときも、やる気を糧に再び立ち上がることができる。 最後に 運と実力の関係は単純ではない。 しかし、自身の成長や能力を信じ、運も巻き込みながら人生を切り拓いていく姿勢こそが、成功へと繋がる鍵となるのだ。 イラスト:「イラストAC」mine 投稿:2021.5.25 火曜日

不確定な世界で「絶対」を語る意味

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言葉は人間にとって非常に重要なコミュニケーションツールである。 しかし、その中には、我々の日常的な感覚では理解しがたい概念も多く含まれている。 例えば「無限」や「永遠」という言葉は、時間や空間に限界を持つ人間には、その広がりや終わりのない状態を完全に理解するのは難しい。 たとえ数学や哲学といった専門的な文脈で「無限」が論じられていたとしても、それを直感的にとらえるのは容易ではない。 こうした言葉を耳にしたとき、「なんとなく」ではなく、「それは具体的に何を指しているのか?」と一歩踏み込んで考える習慣を持つと、言葉に振り回されにくくなる。 また、理解しがたい言葉の一つに「絶対」というものがある。 昔、知人が「絶対というのは絶対にない」と言っていたことがあった。 当時の自分にはその意味がよくわからなかったし、「そんなの考えるだけムダ」と思っていたので、「ふ~ん」と軽く流してしまった。 でも、今になって思い返すと、その言葉は、世の中で使われる「絶対」という言葉への疑問や警戒心を示していたのかもしれないと感じるようになった。 日常会話で「絶対」という言葉を使う人たちは、自分の意見や主張を強く伝えたいときに、この言葉を持ち出すことが多い。 「絶対に成功する」とか「絶対に負けない」といった具合に。 でも、よく考えてみれば、その人がどんなに強い口調で「絶対」と言っていても、それが現実の出来事と一致するとは限らない。 むしろ、「絶対」という言葉を安易に使っているときこそ、内容の裏付けが弱い場合もあるので注意が必要だ。 実際、詐欺的なセールスや誤解を招く広告などでも「絶対に儲かる」「絶対安全」といった言葉が使われていることがある。 そうした場面で「絶対」という言葉をうのみにしてしまうと、思わぬリスクを背負うことにもなりかねない。 今になって考えてみると、「絶対というのは絶対にない」というあの言葉は、人が使う「絶対」ほど信頼できないものはない、という警告だったのかもしれない。 実際、論理的に見ても、人間の言う「絶対」が本当に「絶対」であることは稀である。だからこそ、「絶対」を連発する人の言葉には、少し立ち止まって疑ってみる姿勢が必要なのだと思う。 ...