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貢献の本質と幸福のかたち

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他人に貢献することは、ぱっと見、とでも素晴らしい行いのように思える。 また、見返りを求めずに貢献することで幸せを感じるとも言われている。 確かに、良好な人間関係には貢献が重要な役割を果たしているかもしれない。 しかし、自分の経験上、必ずしもそれが幸福に結びつくとは限らないと感じることもある。 なにより大切なのは、まず自分にしっかりと向き合い、自分自身に満足することだと思う。 そうして心が満たされたとき、自然と他人にも貢献したいと思えるようになると思う。 そのとき初めて、純粋に見返りを求めない行為が生まれるのだと思う。 ただし、貢献する際には、相手に迷惑をかけないよう気を配ることも大切である。 善意がかえって余計なお節介と取られることもあるからである。 貢献しても幸福を得られない理由 過去の経験から、たとえ見返りを求めずに貢献したとしても、相手の態度や行動が期待とは違うと「あの時に貢献したのに」と感じることがある。 貢献が無私の行為であっても、後になって自分の感情が揺さぶられるのは避けがたいものだが……。 貢献で幸福感を得られる人は、物事を割り切れるタイプだと思う。 自分はまだそこまで割り切れないと感じている。 貢献に適した相手とは 理想的には、自分にとってプラスとなる相手に貢献することが望ましい。 そうした相手からも同じような貢献が返ってくると、双方が幸福感を得られ、良い関係が築けると思う。 とはいえ、無条件で貢献するのではなく、相手の反応や状況を観察し、無理なく続けられる範囲で行うことが重要である。 貢献を控えるべき相手 一方で、自己中心的だったり、貢献を当然と思うような相手には、貢献は控えるべきである。 こうした相手には感謝されることもなく、結果的に自分が疲れてしまう。 このような人とは適度な距離を保ち、自分の心を守ることが大切である。 自分のために貢献する 自分のために他人に貢献する、という考え方も大事である。 見返りの有無にかかわらず、最終的に自分にプラスになるような行動を選ぶことが、良好な人間関係を築くための鍵になると思う。 感謝されないことがあっても、それを自己満足と受け入れることで、長期的な幸福につながるのではないのだろうか。 ...

「楽して儲かる話」には乗らないように注意していること

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「楽して儲かる」……えっ、そんな仕事なんてこの世にあるのかな?。 「誰でもできる」「簡単」「短時間で高収入」……なんか、その仕事のことが気になってきた。 挙句の果てに「初期費用無し」……なんて言われたら、いてもたってもいられなくなってくる。 ネット等でそういう広告を見かけると「世の中には他人に儲けさせてくれる親切な人間もいるんだ~」と嬉しく感じてしまう。 だけど……「絶対に損はしない」とかって言われると、なんかその仕事の内容が怪しく感じてきてしまう。 お金に関することで「絶対に損はしない」とか「絶対に儲かる」とか言われるのは、冷静に考えてみれば不自然なことである。 なぜなら、どんなビジネスにもリスクが存在するからだ。 例えば、商品を売る商売だと、仕入れた商品が売れ残ったり、価格が下がってしまうリスクがある。 投資であれば、市場の変動によって元本割れするリスクもある。 つまり、「絶対に損しない」などという約束ができる人はいないし、そんな話があればむしろ警戒すべきである。 それに、そもそも「儲け話を他人に勧める」という行為自体、少し怪しい感じがする。 もし本当にそんなに儲かるなら、自分だけでやればいいはずだ。 例えば、あなたがすごくおいしいケーキのレシピを持っているとしたら、他の人に教える前に自分でそれを作って売ってみたいと思うはずだ。 それなのに、わざわざ他人に教えてくれるということは、その話には裏があるのかもしれないと思ってしまう。 一方で、「儲け話を勧める」ことが全て悪いわけではない。 例えば、フランチャイズビジネスというものがある。 フランチャイズとは、ある企業(本部)が、自分のビジネスモデルを他の人(加盟店)に提供し、その代わりにロイヤリティ(権利使用料)を受け取る仕組みだ。 コンビニエンスストアのセブンイレブンやファーストフードチェーンのマクドナルドなどが代表的な例である。 この場合、フランチャイズ本部は加盟店に対してビジネスのノウハウやブランド力を提供し、加盟店はその見返りとして本部にロイヤリティを支払う。 成功すれば、両者ともに利益を得られる可能性がある。 しかし、フランチャイズビジネスにもリスクはある。 ...

人間が生きる意味ってなんなんだろう

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人間が「生きる意味」を探そうとするのは、地球上の生命体の中でも特別ことかもしれない。 生物学的に見れば、生き物はただ生まれ、成長し、子孫を残し、そしてやがて死んでしまう……。 これが自然の摂理である。 しかし、人間はそれ以上の何かをもとめて「自分は何のために生きているのか」という問いを抱いてしまい、答えをさがしてしまう……。 生きる意味を考え始めると、その答えはあるようでないように思える。 非常に曖昧で捉えどころのないテーマだが、それを考えること自体が人間に与えられた特別な能力であり、時には「なぜこんなにも複雑な生き物に生まれてしまったのか」と嘆くときもある。 それでも、せっかく人間として生まれたからには、生きる意味を見出し、たった一度きりの人生を全力で生き抜く価値があるのではないのだろうか……。 生きる意味を見つけるヒント 社会の中での役割を果たす 人間は他者とのつながりの中で自分の存在意義を感じることが多い生き物である。 家族を支えるため、友人と助け合うため、職場や地域社会で役立つ存在になること。 それらの関係性の中で、自分が誰かの役に立っている、必要とされていると感じられる瞬間に、生きる意味を実感する人も少なくないと思う。 自己実現を追求する 生きる意味を「自分自身の成長」や「目標の達成」に見出す人もいる。 例えば、芸術を愛する人は作品を通じて自己表現を楽しみ、研究者は新たな発見で人類の知識を広げようとする。 何かを極めたり、挑戦し続けたりするその過程そのものが人生を充実させ、生きる意味を形作るのかもしれない。 小さな幸せを積み重ねる 「幸せになるために生きる」という考え方も自然なのかもしれない。 美しい景色を眺めること、美味しい食事を味わうこと、大切な人と笑いあうこと。 これらの日常の中の小さな喜びが積み重なることで、人生の意味が見えてくる場合もあるかもしれない。 生きる意を見つける過程そのものが意味 たぶん、ある哲学者が言ったことだと思うが「生きる意味を探すこと自体が、人生を豊かにする」と聞いたことがある。 答えは、あらかじめ用意されているわけではなく、自分で見つけていくものかもしれない。 何かに迷ったり、悩んだりすることさえも、生きる意味を作り上げる大切な要素になると思う。 どんな意味でも、それは「自分のため」でいい もし生...

大好きなもち米に含まれていない成分

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もち米とは、おもちの原料になるお米のこと。 おもちはそのまま食べても美味しいが、しょうゆもち、なっとうもち、のりもち、づんだもち、くさもちになるとさらに美味しい。 おぞうにも大好きだが、やっぱり味噌ラーメンにおもちを入れるのが最高だと感じる、あのお雑煮のようにドロドロになってから麺に絡みついた時の食感が何ともいえない。 その他に大好きなのは、おこわ、おはぎ、おだんごなど、もち米とうるち米とを混ぜたものも大好きである。 うるち米とは普段の食事で食べるお米のこと。 精米した状態で両方のお米を見比べたときに、昔から疑問に思っていたことがある お米を炊く前のうるち米は半透明なのに、なぜもち米は最初から白色なのかと……。 白色ということは、あのもちもちした粘りのある食感は何か特別な栄養素が含まれているのかもしれない、と長い間そう思っていた。 長年にわたり疑問に感じていたことを払拭するために、いったい何が含まれているからもち米はあんなにおいしいのか調べてみることにした。 なんと逆だった、うるち米に含まれている栄養素がもち米にはないから、らしい……。 お米にはアミロペクチンとアミロースというデンプンが含まれており、うるち米はだいたい80パーセントくらいがアミロペクチン、残り20パーセントくらいがアミロースで成り立っているらしい。 しかし、もち米はアミロースがほとんど含まれず、ほとんどがアミロペクチンというデンプンで成り立っているという。 なんと、たった20パーセントのアミロースというデンプンがないだけで、あんなに食感が変わるなんて、あっ色もだった。 なんか、また、長年の思い込みが覆されてしまった。 基本となるうるち米と、あんなに味や食感が違うのだから何か特別な栄養素が含まれていると思いこんでいたが、逆にうるち米に含まれていた栄養素がないから、だとは思わなかった。 逆にもち米が主食で、たまにうるち米を食べるのだったら、アミロースが含まれているから半透明であの味と食感だ、となっているのかもしれない。 いつも注意していることは物事をひとつの方向から見ないこと、つねに何故なんだろう?とあらゆることがらを疑ってみる。 そうすれば、決めつけてしまって本質が...

ものの見方を変えて考え方を変えてみる

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物事に対する見方や考え方を変えることは、人生において非常に重要なスキルだと思う。 我々人間の考え方は、多くの場合、過去の経験や周囲の影響によって作られている。 そのため、時には固定観念に縛られてしまい、新しい視点を持つことが難しくなることがある。 しかし、視点を変えることで、思いもよらない解決策や可能性が見えてくる。 例えば、失敗を恐れて新しいことに挑戦できない人でも「失敗は成長の一部だ」と考えるようになると、自然と新しい挑戦に対するやる気や意欲が湧いてくる。 この考え方の転換は、自己成長や成功への大きな一歩になると思う。 また、他者とのコミュニケーションにおいても、見方を変えることは非常に役立つ。 自分の意見に固執せず、相手の立場や考え方を理解しようとすることで、より建設的な対話ができ、誤解や対立をさけることができる。 具体的な方法としては、まず自分の思考パターンを客観的に見つめ直すことが大切だ。 その上で、新しい情報や異なる意見に積極的に触れることで、自分の視野を広げることができる。 例えば、異なる文化や背景を持つ人々との交流することは、新しい視点を得るための素晴らしい機会になる。 そして、変化を恐れず柔軟に考えることを心がける。 変化は時に不安を伴うが、それが成長や進歩のきっかけとなることを忘れてはいけない。 視点を変えて柔軟な思考を持つことで、有意義で充実した人生を送ることができる。 ものの見方を変えることで得られる心の軽さ ものの味方を変えることは、心理的な負担を減らす効果もある。 例えば、以前は腹が立っていたことが、見方を変えることで悩みやストレスが軽減したと感じる人も多い。 否定的に捉えていたことを、少し肯定的に見てみることで、新しい世界が開けるように感じることもある 柔軟な考え方や、時には「諦める」という選択が、その変化の鍵になると思う。 以下は、見方を変えることで心の負担が軽くなった例である。 人生 「いつも幸せでいなければならない」と考えていたが「最終的にはすべての人が死ぬ」という無常観に気づいたことで、今この瞬間を大切に生きることが最善だと思うようになった。 この考えはすべての人に当...

やる気を出して新しい体験を積み重ねる重要性

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子供の頃って、新しいことに対するワクワクや楽しさを毎日のように感じていて、何をするにも新鮮な気分でいられた気がする。 だけど、大人になると、そういう感覚がだんだん薄れていって、何もかもが当たり前になってしまって、心の底から楽しめることも少なくなってきたように感じる。 なぜなんだろう……。 大人になっても楽しいと感じることはもちろんあるけれど、子供の頃ほど新鮮さを感じられないし、心から楽しめことも減ってしまった気がする。 もしかして、経験を積んでいろいろなことが分かるようになると、予測がつくことが増えて驚きが少なくなってしまったのかもしれない。 それとも、大人になるにつれて純粋さが失われて、心がどこかでくもってきてしまったのかもしれない。 悪く言うと、感情が鈍ってきたから、なのかもしれない。 でも、だからといって、人生をただの惰性で生きていくのはもったいない。 なんというか、そのままじゃ人生がただただつまらなくなっていくような気がする。 このままだと、なんとなく楽しいけど、本当に楽しいのかどうか曖昧な感じで人生が終わってしまう気がして、なんとなくだけど不安を感じる。 そう思ったときに、やっぱり新しい体験や未知の世界に触れる機会を増やすことが大切なんじゃないかと感じるようになってきた。 もちろん、子供時代のような純粋な新鮮さを取り戻すことは難しいかもしれないけど、少しでも新しいことに挑戦することで、また違った新鮮な気持ちを味わえるかもしれない。 挑戦といっても、いきなり大きなことをする必要はない。 例えば、日常の中でちょっとした変化を加えてみるのもいい。 いつもと違う日用品を使ってみたり、普段とは違うスタイルの服を選んでみたり、新しい料理に挑戦してみたり、知らない街を訪れてみたりするのもいいと思う。 小さな変化が積み重なることで、新しい発見や驚きが生まれてくるかもしれない。 また、最新の研究では、脳は新しい経験を通じて成長し続けることが分かっている。 新しいスキルを学ぶことや、異なる文化に触れることは、脳の神経回路を刺激し、柔軟性を高めると言われている。 だから、日常に新しい体験を取り入れることで、思考や感性も豊かになり、より充実した人生を送る手助けになるかもしれない。 結局、毎日が充実した有意義なものになるかどうかは、自身の行動次...

価値のない虚構に価値を与える

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道端に転がっている石ころに、「持っているだけで幸福が訪れるスーパーストーン」というキャッチフレーズを付けてみる。 そして、売り出すときの値段を100円くらいにして販売する。 もしかしてと思って買ってくれた人間が望んでいた幸福が訪れなかったとしても「100円だからしょうがない」と諦めてくれると思う。 しかし、もしこれを1万円で売ったとしたら……望んでいた幸福が訪れなかった場合は詐欺で訴えられてしまうはずである。 価格が高いほど物に対する価値観が変わることを考えると、人間は価格によって価値を感じる傾向ががあるように感じる。 「そんなもの買ったりしない」「そんなものには自分は騙されない」と思うかもしれないが、世の中には価値のない虚構に対して、誰かが勝手に価値を与えたものに、惜しみなくお金を払っている人間がたくさんいるのも事実である。 価値を植え付けられる 物心がつくまでの子供には価値という概念は存在しないと思う。 もし、本能で感じているとすれば価値があるのは母親か、もしくは世話をしてくれる人間くらいだろうか?……。 そして、物心がついた後には、子供時代に見たり聞いたり触れたりして影響を受けたものや、成長過程で周りにいた人間に価値観を植え付けられたりして、価値のないものに価値を見出していくと思う。 だから人間の価値観はそれぞれ違うものになってしまう。 価値の決め方 やっぱり造るのに時間がかからないものや劣化しやすいもの、どこにでもあるものや誰にでもできることは価値が低く設定されるので値段も安いと思う。 逆に造るのに時間がかかるものや劣化しにくいもの、希少なものや資格がないとできないものは価値が高く設定されているはずである。 虚構に価値をつける 千円札には千円の価値がある。 千円で買える物には本当に千円の価値があるんだろうか?。 物の価値は原料の手に入りやすさ、製造時間と手間、流通の方法、販売のしかたなどで値段が決まってくる。 これらは誰かが決めたことであり、条件が変われば価値も変わってしまう。 もともとあらゆるものには価値というものは存在しない。 人間がつくった虚構に価値を与えているだけである。 そしてその虚構を信じているおかげで人間社会がなんとなくうま...

電気に頼らない生活の挑戦と災害への備え

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電気に頼らない生活を目指すといっても、今の生活環境ではどう考えたって難しいことのひとつに数えられる。 しかし、東日本大震災の時に停電になり、電気の使えない生活をしばらくのあいだ余儀なくされた。 この経験から、どれだけ電気に依存しすぎていたことも分かったし、短期間であれば電気が使えなくても何とか生きていけるということも実感した。 ただし、現代の生活では電気が必要不可欠であることも同時に痛感した。 電気がないと水道の供給や病院の医療機器にも影響が出てしまい、長期間の停電は大きな困難をもたらす。 現代社会では多くのインフラやサービスが電気に依存しており、無いと困るのも事実であることを再認識した。 人間が生きていくのに電気というものは必要不可欠なものなのかもしれない……。 電気がないと動かないもの達 現在、家の中で電気がないと稼働しないもので生活に必要なもの、照明・冷蔵庫・洗濯機・エアコン・炊飯器・電子レンジ・掃除機・ファンヒーターなど……。 情報を得るための媒体、テレビ・ラジオ・パソコン・タブレット・スマートフォンなど……。 その他にも、ドライヤー・プリンター・DVDプレイヤーなど、探せばまだまだあると思う。 こうやってみると人間は、電気がないと稼働しない電化製品というものに支配されているようにも感じる。 なにかひとつでも欠けたら不便だと感じてしまうだろう。 あとは、完全に電気に支配されているオール電化住宅なんてのもある。 今ある電化製品と代替できるものを探す 電気がない時代があったんだから代替できるものは必ずあるはず、と思いながら探してみたけど、たいしたものは思いつかなかった。 照明の代わりになるもの、ロウソクぐらいしか思い浮かばないけど東日本大震災の時は乾電池のストックがあったので夜は懐中電灯で過ごした。 冷蔵庫の代わりになるもの、クーラーボックスに氷を入れるくらいしか思い浮かばないけど、そもそも氷を作るのにも電気が必要、真冬だったら必要ないけど。 洗濯機の代わりになるもの、タライで手洗い、レベルアップしたら洗濯板を使う。 エアコンの代わりになるもの、ウチワが最適。 炊飯器の代わりになるもの、ガスが使えれば心配ない...

ミニマリストになりたいのに物が捨てられないのはなぜ?

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ミニマリストになりたいんだけど……。 👀「ふ~ん、なればいいんじゃないの」 とは言っても、なかなか物が減らないんだよな~。 👀「ふ~ん、減らせばぁ~っていうか、ミニマリストっていったい何なの?」 少ない持ち物で充実した生活を送ること、だったと思うんだけど。 👀「じゃあ、かたっぱしから捨てていかないと、もうすぐゴミ屋敷になっちゃうよ」 でも、もったいないしな~。 👀「あ、もしかして、もったいないお化けにでも取りつかれたの?」 ミニマリストに対して持っているイメージ お金に余裕がある。 お金に余裕があるので心にも余裕がある。 心に余裕があるから必要なものと不必要なものを判断できる。 判断できるから無駄なものを買わないで、本当に必要で良い物を購入する。 本当に必要で良い物なので大事にする。 大事にして長持ちするので生活にお金がかからない。 最初に戻る。 なんとなくだけど、ミニマリストになれば好循環が訪れて、人生まで良い方向に向かっていく、そんなイメージがあるだけどな~。 👀「だ、か、ら、なればいいのに」 ミニマリストになるのを邪魔する考え 自分の持ち物はたくさんある、っていうか、あり過ぎる。 使っていない物もたくさんある。 クローゼットにはいちども着てないけどいつか着るかもしれない服、本棚にはいちども読んだことがないけどいつか必要になり読むときがくるかもしれない本、あとは、小物類を入れるケースは未だに空である、その他に得体の知れないものがわんさかある。 今まで着ていなくても、これから着るかもしれない服を処分してしまったら同じ服を買うのにお金がかかる。 今まで読んだことがない本も、いつか必要になるときがきて読みたくなるかもしれない。 今まで何も入れたことがないケースでも、これから片づけをしようとやる気が出たときに、入れ物がなかったらせっかくのやる気も失せてしまう。 得体の知れないものは得体の知れないものだから触れたくもない。 これらは来るか来ないか分からない未来のために、処分することをためらっているだけなのだが……。 そして、たまに片付けをすると、存在すらも忘れていた物が出てくるときがある。 ...

他人を見返してやるための怒りとやる気

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たまにだけど、過去の人間関係で腹の立つ出来事を思い出すと、純粋な怒りが湧いてくるときがある。 これは過ぎ去った過去だからであり、過去の出来事と因果関係がある未来を予測してしまうと、怒りから不安に変わることがあるので純粋な怒りにはならない。 純粋な怒りって何?……どんな感情なの?……と聞かれてもどういうふうに説明したらいいか分からないけど、心に負荷がかかっていない状態、だと思う。 心に負荷がかかっていないけど頭の中は怒りでいっぱい的な感じ……。 寝るときに始まる反芻は、怒りと不安が入り混じって心に負荷がかかって眠れなくなる。 たぶんこれがストレスと呼ばれるものだと思うが、純粋な怒りの場合は心に負荷がかかっていない状態、なのでストレスとも違うと思う。 その怒りの先には見返してやりたいという思いがあり、自らの劣等感が引き金になっている。 その劣等感を克服して他人に対して優位になり、見返して優越感に浸りたいという目標が有るから、嫌な感じにならない怒りが発生するのかもしれない。 その怒りが発生しているときは何故なのか分からないが、やる気も発生して体がスタンバイの状態になっている。 そのふつふつと湧いてきている怒りとやる気を利用して、めんどくさいと思って先送りしてきた事柄に手をつけてみたら、なんと、見返してやりたいと思う事柄に関連性がなくても、その怒りとやる気を利用してめんどくさい事柄を勢いでこなしていけるようになった。 他人より劣っていたり、同じでも別に気にしないという人間もいるが、ほとんどの人間は他人よりも優位性を保ちたいと思っていると思う、ていうか生きるための生存本能だと思う。 単なる劣等感だけなら落ち込んだりするだけだが、見返してやるということは成長しなければならないという要素も含んでいる。 その見返してやるという怒りの感情が成長のために、やる気というものを引き出しているのかもしれない。 過去にバカにされたこと、恥ずかしく感じたこと、悔しかったこと、その事柄を思い出したとき、もし純粋な怒りが湧きおこってきたら、人間として生きていくための優位性を確保するために発生しているのかもしれない。 怒りを利用してやる気が出れば、いろんなことに挑戦できる...

依存の必要性とリスク

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依存が人間にとって必要かどうかは、意見が分かれる問題だと思う。 依存とは、何かに頼らなければ生きていけない状態を指し、極端な場合にはギャンブル依存症やアルコール依存症のような病気なってしまうこともある。 子供の頃は親に依存しなければ生きていくのが難しいし、大人になると社会や仕事、お金や家族などに一定の依存をしていくようになると思う。 しかし、依存が過度になると問題が生じてしまうときもある。 例えば、会社に依存している人間がいるとする。 その人間達は仕事に不満を持ちながらも、会社にしがみつき、周囲に愚痴をこぼす。 転職や状況改善の努力をせず、ただ現状に不満を抱えてしまっている。 そして、周囲にも本人にも悪影響を与えてしまう存在になってしまう。 一方で、社会や家族、友人、ペットなどに依存することは、人間が生きるために必要な支えを提供しているとも感じている。 人間は本質的に弱い存在であり、何かに支えられて生きている。 依存対象を失ったときの不安から逃れるためには、自己を信じ、自立する力を養っていくことが重要なのかもしれない。 依存しないように生きていくことができれば、精神的に強くなり、自分自身を信じられるようになると思う。 そのためには、依存対象がなくなったときには潔く受け入れ、自己を新たな依存対象にすることが必要である。 投稿:2021.10.20 水曜日

オタマジャクシから学ぶ自然と人生の不確実性

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かつて水たまりがあり、その中央付近のいちばん底が深かった場所に、オタマジャクシたちは寄り添うような形で死んでいた……。 これまでも死んだオタマジャクシを何度も見たことがあるけれど、今回の出来事はちょっと考えさせられてしまった。 自然界にいる生き物たちは環境の変化に影響を受けてしまうのだが、今回の件は運の要素を強く感じてしまった出来事だったからである。 なので、運に支配されている人間も例外ではないと思ってしまった。 梅雨時、毎日のように小雨が降り続いていたときの話。 水たまりがあり、毎日の雨のおかげでたまった水が無くならない状態が続いていた。 ある日、何かが動いているのを発見。 ボウフラでも繁殖しているのかと思いきや、なんとオタマジャクシだった。 親カエルはこんなところに卵を産んでいったらしい……。 ふ化したばかりだろうか、チロチロと泳いでいる。 こんな水たまりなんか雨が降らなくなったらすぐに蒸発するか、土に染み込んで水がなくなってしまう。 それに、食べるものもないのですぐに死んでしまうだろう程度に思っていた。 なので気にもしなかった。 しかし、その年の梅雨は水たまりを維持するかのように毎日、雨が降り続いた。 たまに見かけるたびにどんどん大きくなっていくオタマジャクシ。 最初はチロチロと泳いでいたオタマジャクシは狭い水たまりの中でウヨウヨとひしめき合いながら泳ぐくらいにデカくなっていた。 ここで疑問が湧いてきた、何を食べて大きくなったんだろう……。 微生物?それとも土から染み出した養分、もしかして雨の中に何かしらの栄養素があるのだろうか……。 気になったので調べてみたら蛙は昆虫などを食べる肉食だが、オタマジャクシ時代は草食らしい。 草食?……。 だとするとその水たまりには、雨雲で太陽の光が遮られた状態でも、わずかだが苔が生えていることになる。 それをみんなで食べて大きくなった、ということになる。 この大きさなら間もなく足や手が生えてくるし、えら呼吸から肺呼吸に変われば、いつ水が無くなるかもしれない不安定な水たまりから卒業していくことができる。 あともう少しの辛抱でカエルになれる。 毎日降り続いていた雨もいつの間にか止んで...

円状交差点のスムーズな通行法と注意点

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この円の形をした交差点は 環状交差点 とか、 ラウンドアバウト などと呼ばれている。 初めてこの交差点を通過したときは、なんて画期的な交差点なんだ、と思ったことを覚えている。 この 環状交差点 には、なんと…… 信号機 が存在しない、そして、 止まれ の標識すらも存在しないからである。 が、その代わりに路面に ゆずれ と書いてある、えっ、何をゆずるんだろう?……。 パッと見はたいしたルールがなさそうだが、いちおう安全に走行するためのルールが設けられている。 まず 環状交差点 に近づいたら左側によって徐行する。 交差点内で走行している車が優先になっているので、走行の妨げになりそうなら一時停止する。 そのための ゆずれ であった。 もちろん人や自転車などがいたら一時停止するか ゆずれ である。 交差点内は時計回りの一方通行なので、進入するときはウインカーは出さなくてもいいことになっている、なぜなら、一方通行だから、だが普通にウインカーを出して進入するドライバーも見かける。 たまにだが無意識に自分もウインカーを出して侵入しているときがある、交差点内は危険なので注意を怠らないようにしないと……。 そして進入した後は、出ていきたい方向にある道路の直前でウインカーを出し、交差点を出るまで点滅を継続させながら出ていく。 う~ん、スムーズだ。 と、思っていたが何度も通過していたら、なんかめんどくさいと思うようになってきた。 それはハンドルを切る回数。 左方向に行きたいときはまだいいとする、左にハンドルを切ってチョット戻してまた左にハンドルを切る、なれると特に問題はない。 ここからがめんどくさい。 直進方向に進みたいのに左にハンドルを切る、そして戻して今度は右にハンドルを切る、そして戻してウインカーを出して今度は左にハンドルを切って交差点から出ていく。 作業量が多過ぎる。 そして右方向に行きたいときも最初は左にハンドルを切る。 ここでくじけてはいけない、戻してから右に切る、そして出ていきたい道路までその状態をキープし、戻したらウインカーをあげて左にハンドルをきり脱出する。 ふぅ~疲れた。 このウインカーを出すタイミングがハンドルを戻して...

欲を捨て無欲になりたいと思うのも欲

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「欲を捨てて無欲になりたい」と思うことがよくある。 これは物質的な欲望や、名声を追い求めることに疲れ、シンプルで内面的な平穏を求める心の表れかもしれない。 しかし、この「無欲になりたい」という思いもまたひとつの欲望に過ぎないのかもしれない、と思うこともある。 欲とは、何かを求める心の動きであり、たとえそれが「何も求めない」状態であったとしても、その状態を求める欲望といえるかもしれないからである。 人間の欲は多様である 体が求めるものは生命を維持するものであるため、多くの人に共通する傾向がある。 しかし、心が求めるものは個々の価値観や経験によって異なり、人間の数だけ欲望があるともいえる。 欲があるからこそ、人間は生きる意欲を持ち続け、社会の中で活動を続けられると思う。 むしろ、すべての生命体に共通していることは、欲が生命の維持や種の保存に不可欠であるということ……。 しかし、他の生命体とは異なり、人間は社会という複雑な環境で生きている。 そのため、各々が自分の欲望を適切にコントロールする必要がある。 それでも、食欲がなければ命を維持できず、物欲がなければ社会は機能しない。 性欲がなければ人類は存続できない。 とはいえ、それらの欲望を抑え、バランスを取ることは非常に難しいと感じる。 なぜなら、人間は欲の塊であり、その欲が本能に根差しているからである。 人は本能をコントロールすることができる言われているが、多くの場合、本能に振り回されていることの方が多いような気もする。 欲を諦めることは可能なのか? 極めて難しい課題である。 他人との比較を避けることや、「足るを知る」ことなどが重要だと言われているが、いずれも難易度が高いと感じている。 「欲を諦める」とは、ある意味で無理をすることだと思う。 だからこそ、人間は欲望に対して敏感になり、無欲であることを望むのかもしれないが、これもまたひとつの欲望であることに気づいてしまうのである。 それでも、欲望を諦めきれる瞬間もある。 それは、欲望を追求しすぎて失敗し、嫌な思いをすることで初めて欲が消え去る場合である。 人間は失敗を通じて学び、欲望をコントロールする術を手に入れることができるかもしれないが、同時に同じ過ちを繰り返すのもまた人間である。 それでも、失敗を糧に成長し、欲望に対して自...

魂の存在とその意味を考える

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ある日、ふと思ったことがある。 魂とはいったい何だろうか……。 存在するのか、しないのか、どちらともいえない不思議な存在。 魂は生きている間は体に宿り、死ぬと体から抜け出すとされているが、生まれる前や死んだ後の魂については、多くの説があり、何が真実なのかは誰にも分からない。 魂の本当の意味は「精神的実体」という概念らしい。 しかし、「概念」という言葉自体が曖昧で、多くの人がそう認識しているだけであって、本当に存在しているかどうかは分からない、ということでもある。 考えれば考えるほど、分からないことばかりだ……。 もし魂が本当に存在しているとしたら、どんな感じなのだろう。 なんとなくイメージしてみたけど無色透明の球体のようなものしか思い浮かばない。 その球体が人間の体に宿ると、その人間の人生のすべてがどんどん詰め込まれていくような感じである。 もしかしたら、仮に人間の魂だったとすると……人間関係のストレスが溜まりすぎて、魂が真っ黒でドロドロしたものになってしまうかもしれない、とも思ってしまった。 そして、その魂が宿った人間の生命活動が終了した時点で、魂はリセットされて元の状態に戻り、また次の宿主を探すのではないか、と考えた。 リセット?……う~ん、そうだと思うけど、これも仮説にすぎない。 前世の記憶や因果関係が後世にまで影響を与えるのは、リセット時に何らかの障害で記憶や感情が完全に消されずに残ってしまうからかもしれない。 怨念のようなものも、そうして生まれるのだろうか……。 しかし、これも実証されたわけではなく、真実は何だか分からない。 この世は魂の修行の場なのか? この世は魂の修行の場だと聞いたことがあるが、それがどういう意味なのか考えてみた。 魂というのは物質ではない高位な存在のはずなのに、なぜわざわざ下位の物質世界に来て修行する必要があるのか?……と疑問に思ってしまった。 魂の成長を目的とするならば、もっと高位な場所での修行が必要ではないのだろうか。 この現実世界がもし駄目な場所なら、そこで修行することで魂も駄目になってしまうかもしれない。 もしかすると、この世は魂をふるいに掛け、真に成長可能な魂を選別するための場所な...

あらゆる人間に平等に訪れるもの

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この世には「平等」という美しい言葉があるが、現実の人間社会でその意味を見出すことは容易ではないと思う。 貧富の差、立場の違い、才能や環境の格差など、社会は不平等に満ちている。 理想として平等を目指しても、それが完全に実現することは難しい、というより不可能に近いと思う。 その理由は我々人間が本能的に「生存競争」の中で他者よりも優位に立とうとする性質を持っているからかもしれない。 しかし、どれだけ環境や状況が異なっていても、すべての人間に等しく訪れるものがある。 それが「時間」「変化」そして「死」である。 これらはどんなに裕福でも、どれほど権力を持っていても、どれだけ信仰心が強くても、誰ひとりとして逃れることのできない普遍的な現象である。 時間の平等 「時間」はあらゆる人間に平等に与えられている。 1日は24時間、1年は365日……。 この単位は万人に共通している。 しかし、時間をどう使うかは個々の選択に委ねられている。 時間は流れ続け、過去に戻ることはできない。 その有限性を意識するからこそ、我々はその使い方を考え、充実した日々を送ろうと努力するのかもしれない……。 変化の平等 また、「変化」もまた平等に訪れてしまう。 季節が移り変わるように、人生もまた絶えず変化し続け、自身の体も、少しづつ変化していく。 そして、新しい出会いや別れ、成功や挫折、予想外の出来事、こうした変化は我々を時に喜ばせ、時に苦しめていく。 それでも、変化を通して学び、成長し、より深い人生を体験することができるのも事実である。 死という究極の平等 そして、「死」というのも忘れてはいけない。 これはすべての人に訪れる最後の平等である。 どんなに健康に気を使っていても、どんなに医療技術が発達していても、人間は必ず命を終える運命にある。 富や地位、知性、信仰の有無も関係なく、死は平等に訪れる。 多くの人間は死を恐れ、直視することを避ける。 なので、「死ぬのは怖くない」と言う人間ほど、体をいたわり、健康診断を欠かさず、老後の心配をする。 年齢を重ねるほど、死への漠然とした不安が強まり、強がりを口にすることもある。 「いつ死んでもいい」と語るその裏には、死を受け入れきれない心が隠れているのかもしれない。 平等を受け入れるということ 生きているときの平等でさえ、生存競争のために受け...

「正範語録」という格言をアレンジして人生の役に立てる

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人間関係の悩みは、どの時代においても常に存在する。 人間が生きている限り、これらの悩みは消えることはない。 そして、人生は常に挑戦の連続である。 過去の先人達は、少しでも生きやすくなるようにと、素晴らしい格言を残してくれた。 その中で、特に共感し、人生の指針として役立てているのが「正範語録」である。 「正範語録」 実力の差は努力の差 実績の差は責任感の差 人格の差は苦労の差 判断力の差は情報の差 真剣だと知恵が出る 中途半端だと愚痴が出る いい加減だと言い訳ばかり 本気でするから大抵のことはできる 本気でするから何でも面白い 本気でしているから誰かが助けてくれる これらの言葉は、それぞれ深い意味を持っているが、以下のようにアレンジを加えて人生の指針としている。 自身の経験や価値観が反映しており、オリジナルの格言に新たな意味を加えている。 1 行目の「実力の差は努力の差」という言葉は、努力を積み重ねた人間と、そうでない人間の間には明確な実力の差が生まれることを指している。 努力は積み重ねて初めて実力となり、自信にもつながっていく。 2 行目の「実績の差は責任感の差」とは、責任感を持って取り組むことで実績がついてくる事を意味している。 誠実に物事に向き合うことで、信頼と実績を築くことができる。 3 行目の「人格の差は苦労の差」とは、困難を乗り越えた経験が人間の器を大きくすることを示している。 寛容さや深い理解力が養われる。 4 行目の「判断力の差は情報の差」という言葉については、「判断力の差は経験の差」と解釈し直した。 情報は重要だが、それを適切に判断するには経験が不可欠だと思ったからだ。 1行目から4行目までは他人との比較になっていて、なにかをやった分だけ顕著に違いが表れるという分かりやすいたとえ。 5 行目の「真剣だと知恵が出る」とは、集中して取り組むことで新たなアイデアや解決策が生まれることを意味している。 自分は、たまにしか改善点が思い浮かばないので真剣さが足りてないの...

騙されないために意識する「仮置き」

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騙されるとは嘘をつかれることである。 嘘をつかれ陥れらることであり、騙されてしまうとお金や物・時間まで失ってしまい、最終的には心にまで大きなダメージを受けてしまう。 腹が立つのと悔しいのと愚かさで心がいっぱいになってどうしようもなくなる。 騙されて被害にあい、精神的苦痛を受けないためにはどうすればいいのか?。 やっぱり自分以外の人間をむやみに信用したり信頼したりしないこと、それしかないと思う。 かといって誰も信じたり頼ったりしなければ、人間社会を生きていくのが困難になってしまう可能性もある。 人間はひとりでは生きていけない。 なので、騙されても影響がないと思われる範囲、自らがリスクを負っても致命的なダメージにならない範囲を予め設定しておく。 それ以外は「仮置き」をするように習慣づける。 仮置きとは、誰かに言われたことやメディアから知りえた情報を頭の中に一時的に置いておき、すぐには信じたり信頼したり、果ては行動に移さないようにすること。 信じるのではなく、そういうこともあるかもしれない程度の記憶にとどめておく。 すると、自分以外のすべての人間が発している情報などは鵜呑みにしなくなる。 どうでもいいことは忘れてしまっても構わないが、気になるようなら信憑性を確かめる。 いろんな人間に聞いてみたり、ネットで検索してみたり、本で調べてみるなどして同じ答えがあったのなら正解に近いと思う程度でいいと思う。 自分以外の人間が作り上げた虚構など、信じるに値するかどうかの判断は最終的には自らが決めなければならない。 誰かが言っていたから、誰かに勧められたからと、他人のせいにしていたらいつまでも同じ過ちを繰り返すことになる。 信じると決断したのは紛れもなく自分自身だということを忘れないようにする。 自分以外の人間やメディアに騙されたことがあるなら、まずは情報を頭の中に「仮置き」してみる、その後に信憑性をたしかめる、そして安心してから行動するようにすれば、騙されたということは極力少なくなると思う。 それでも人間関係では様々なことが起こりえる。 何かを頼まれたら、そのリスクを背負う覚悟がなければ引き受けてはならない。 特に、しつこく進めてくる事柄には要注意...

会社を辞めると言った人間を引き留めるリスクと職場への影響

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多くの人間が会社などに務める中、退職を決断する際には、それ相応の理由と覚悟があるはずである。 しかし、退職を宣言しながらも、結局はそのまま働き続ける人間がいるのも事実だ。 こうした現象はどの職場でも一定の割合で見られ、周囲に少なからず影響を与えることがある。 まず、退職を表明した社員が引き留められると、他の社員はその人間に対して不信感を抱いてしまう。 なぜなら、辞めると言っておきながらその言葉を覆す様子は、周囲から口だけで行動が伴わない人間と見なされ、信頼が揺らいでしまうからである。 さらに、引き留める過程で特別な待遇や条件の改善が行われた場合、他の社員との間に不公平感が生まれやすくなってしまう。 この不公平感は、特に同じように不満を抱える社員たちに、自分も同じことをすれば待遇が改善されるのではないか、という期待を抱かせ、職場全体を不安定に陥れる危険性をはらんでいる。 また、引き留められた社員自身も、再び退職を考えることが少なくない。 引き留めによって一時的に職場に留まるものの、根本的な問題が解決されていない場合、再び不満が募り、結果的に職場の士気が低下する要因になる。 こうした不安定な状態が続くと、職場全体のチームワークや連帯感が損なわれ、業務の効率や生産性が低下するリスクが高まってしまう。 特に深刻なのは、引き留められた社員が特別扱いされていると感じ、他の社員との間に亀裂が生じることである。 この亀裂は、チーム内の分裂や派閥形成の原因となり、職場全体の雰囲気を悪化させる要因となりえる。 こうした状況が長引くと、職場の士気が低下し、信頼関係が損なわれることから、最終的には職場全体が不安定に陥る可能性が高まってしまう。 結論として、辞めると宣言した社員を引き留めることは、短期的には一部の問題を解決するかもしれないが、長期的には職場の雰囲気を悪化させるリスクが高いといえる。 職場全体の長期的な健全性や長期的な利益を守るためには、社員ひとりひとりの言動や決断に対して慎重な対応が求められる。 引き留めるかどうかの判断は、表面的な利益だけでなく、職場全体の長期的な安定と信頼関係を考慮した上で行うべきである。 食肉加工工場...

恥ずかしい感情というのは人間だけにあるの?

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なんか、恥ずかしい……。 👀「はあ?いい歳こいて何恥ずかしがってんの!」 子供の頃はいろんなことで恥ずかしいって感じてたけど、大人になってからも恥ずかしいって感じることがたくさんあるんだ。 👀「へぇ~そうなんだ」 そういえば、他の生き物に対して恥ずかしい気持ちになったことはないし、他の生き物が恥ずかしがってたのを見たことがないんだけど……。 👀「確かに、恥ずかしがっている生き物は見ないね」 ということは人間にしか持ち合わせていない人間特有の感情ということになる。 👀「う~ん、そうかも」 そして、人間が社会で生きていくために必要不可欠な大事な感情のような、そんな、そんな気もする。 👀「大袈裟だな~なんかこっちが恥ずかしくなってきた」 ひとりひとり違う感情 いつも思うんだけど、人間の感情くらい不確定で不安定なものはないと思う。 そして、他人と自分の感情の感覚が本当に同じようなのかはハッキリ言って分からない。 なので、顔の表情や言動から推察し、これまで経験したことがある自分の感情の感覚と照らし合わせてから、たぶん同じだろうと判断するしかない。 この感覚のズレが人間関係を煩わしくしている原因かもしれないけど……。 なので、自分が感じる恥ずかしいという感情と、他人が感じる恥ずかしいという感情が本当に同じような感覚なのかは分からないので、自分の経験した感覚から考えてみるしかない。 👀「おおっ!」 価値観を植え付けられる 子供の頃の記憶を思い返してみると、う~ん、家族や周りの人間からこういうことは恥ずかしいことだと言われてから恥ずかしいと感じるようになったのか、それとも自然に恥ずかしいと感じるようになったのかは思い出せない、ていうか覚えていたら凄い。 なんとなくだけど、人間社会という集団の中で生活するための最低限のルールみたいなものがあって、こういうことは恥ずかしいこと、という家族や周りの人間の持つ価値観を植え付けられてから、のような気がする。 たぶん、そうだと思う。 なので、このころに恥ずかしいの基礎的なものができあがっていったと思う。 た...

否定から入る人間と会話をすると訳が分からなくなる

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たあいもない会話でも、マウントを取ろうとしてくる人間やマウントを取ったと思い込んでいる上から目線の人間は、他の人間に対してある共通の否定する言葉を使っていることに気づいてしまった。 それまでは何となく違和感のようなものは感じていたが……はたしてマウントを取りに来たりマウントを取ってあるあるからこそ使う言葉とはどんなものなのか?……。 会話中にこちらの話を聞いた直後、 「違う」 「でも」 「いや」 という否定する言葉を口癖のよう付けてくる人間がいる。 こちらの言った内容が間違っているなら、 「それは」 「これは」 「あれは」 という言葉を使って正解や自分の考えを言えばいいだけなのに、わざわざ否定から始める。 気にしなければいいことだけど、いちいち否定されていることが気になりだすと、腹が立って話もしたくなくなる。 そういう人間は普段から嫌味を言ったり、陰口を叩いたり、愚痴をこぼしたり、わざと反対のことを言ったりする厄介な人間である。 もうこの時点で関わりたくないタイプのひとりに数えられる。 そんなもの気にしなければ気にならないが、気になりだすと会話をする気さえも失せてしまい気分までも悪くなる。 そして、大切なやる気さえも失われてしまう……。 聞いている方は、いちいち否定されることで自尊心が削られたり、ストレスが溜まり心身が蝕まれる可能性もある。 最終的には人間関係が悪化する要因となりうる。 こういう人間と会話する際の注意点は、彼らが話の内容を否定しているのではなく、会話の相手自身を否定して優位性を誇示しようとしている場合があることだ。 もちろん信憑性など、ある訳がない。 優位性を誇示するためだけにマウントを取る人間の話を鵜呑みにすると、特に仕事関係では大変なことになる可能性がある。 この前言ったことと今回言ったことが違っていたりすると混乱することもあるし、挙げ句の果てに「この前の話と違う」なんて指摘すると「そんなこと言った覚えがない」なんて返されることもある。 そんなシチュエーションになって自分も苦労したことがあるし、似たようなことで苦労していた人間を何人か見たこともある。 そういう人間がマウントを取っていると判断したら、人間関係を良好にするのは難しいと...

物質としての人間と心のケア~五感を通じた健全な生活のすすめ

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この世界のすべては物質でできている……だから、人間もその一部として物質で構成されていると考えるのが自然だと思う。 そう考えると、心や精神もまた、物質でできた人間の脳が生み出すものだと言えるかもしれない……現代の神経科学もこの考えを支持しているようだ。 つまり、脳の働きが感情や思考を生み出しているということである。 しかし「心」をただの物質的な反応と捉えるのは少し難しい部分もある。 だからこそ、心の現象は物理的な範囲を超えているのではないかと考える研究も行われている。 人間の体に魂があるから心が存在するのではなく、むしろ、魂という考え方は、我々が意識や自我をどう感じるかを説明するためのものであるかもしれない。 つまり、魂の存在は科学的に証明することはできないということである。 これは、宗教的や哲学的な問いに属するのかもしれない……。 目に見えないエネルギーが人間に影響を与えているという考えもあるが、そのエネルギーが何なのかはまだ科学では解明されていない。 しかし、それを完全に否定する証拠もないため、何らかの形でそのエネルギーが影響を及ぼしている可能性は否定できない。 人間の体が食物からエネルギーを得ているのは確かだ。 だから、人間が物質からできていると考えるのは自然なことだと思う。 そして、物質でできた脳が心を作り出していると考えると納得できる。 この視点から、体と心のどちらを優先してケアすべきかという問いが生まれたのである。 これは「卵が先か鶏が先か」という議論に似ている。 健康な体が健全な心を育むのか、あるいは健全な心が健康な体を作るのか……どちらも大切だが、どちらを優先すべきかは簡単には言い切れない。 でも、やはり物質の世界に生きている以上、物質を優先するのが自然ではないかと思う。 なぜなら、心に影響を与えるのは物質的な世界から得る情報だからだ。 人間は五感を通じて情報を得ている。 第六感があるかもしれないけれど、自分はそれを感じたことがないので、ここでは五感に焦点を当てて話を進めたい。 受精後に細胞が分裂して体が作られていく過程で、心も一緒に作られていく。 そして、その心は体の状態に大きく左右される。 もし体のどこかが痛かったり、苦しかったり、かゆかったり、気持ち悪かったり、あるいは疲れていたりすれば、どんなに心が穏やかでも...

他人の言動に腹が立った時に思い出したい諺

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他人の言動に腹が立ったときって、どうしても感情に振り回されちゃうってことがよくあるんだよね。 👀「ふ~ん、でも、そんなときこそ心を落ち着かせたほうがいいと思うけど……う~ん、例えば、諺とかに耳を傾けてみるのも、もしかしたら有効に働くかもしれないよ」 諺に耳を傾ける?……。 👀「そう、古くから伝えられてきた知恵の言葉は、感情の渦中で冷静さを取り戻す手助けになるんだよ、昔の人たちは同じような感情や状況を経験して、その中で生まれた知恵が諺に詰まっているんだ」 ふ~んそうなんだ、それで、どんな諺が効果があるの?。 👀「まず思い出したいのは『蓼食う虫も好き好き』という諺で、蓼(たで)という辛味のある草を好んで食べる虫もいるように、人の好みや考え方は千差万別であるという意味だよ、他人の言動が自分にとって不快でも、相手には相手なりの理由や考え方があるのかもしれないしね、この諺を思い出すことで『自分と違うからこそ腹が立つ』という視点から『自分と違うからこそ面白い』という新たな見方に転換することができるかもしれないしね」 う~ん、なんとなくは分かるけど、まずは先入観を払拭してからじゃないと視点を変えるのは難しいね。 👀「それは確かにそうだね、先入観があると、どうしても腹が立ちやすくなる、でも次に紹介する『人を呪わば穴二つ』という諺も心に留めておくべきだね、これは、他人に対する怒りや憎しみは最終的に自分自身にも悪影響を及ぼすという意味だよ、相手の行動に腹を立て、その感情に囚われてしまうと、自分自身の身も心も傷つけることになるんだ、怒りに任せて行動すれば、その結果を受けるのは自分自身なんだよ、この諺は、怒りが持つ破壊力を思い出させ、冷静な行動を促す戒めになるんだ」 うっ、なんか身に覚えがある……やっぱり、感情に振り回されると後で後悔することが多いからなぁ……。 👀「そうだよね、そういう経験ってあるよね、でも、その感情を上手にコントロールするためにもうひとつ、『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』という諺もあるよ、もし他人の言動に腹を立てた原因が、自分の誤解や知識不足から来ているのだとしたら、感情的になる前に、その真意を相手に尋ねてみるのもひとつの方法だね、ちょっと勇気がいるけど……でも誤解が解けるこ...

「実力」と「運」の関係性を見直してみる

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「運も実力のうち」という諺を初めて聞いたとき、少し違和感のようなものを覚えてしまった。 運と実力は全く別のものであると感じていたのに、どうして運が実力に含まれてしまっているのだろうか……。 そもそも運とは「その人間の意志や努力ではどうしようもない巡り合わせ」を指している。 つまり、どれだけ頑張っても人間の力では変えることができないものが運である。 しかし、それでも「運を味方につける」や「運を引き寄せる」といった表現は、まるで自分の力でどうにかできるかのように語られている、これは矛盾しているように思う。 では、なぜ運を実力の一部とみなしてしまうのだろうか?……。 もしかすると、他人が成功を収めた時に、その成功を運が良かったからと片付けてけてしまうのは、嫉妬心や他者の努力を認めたくない気持ちが影響しているのかもしれない。 成功した人がいくら努力し、才能を発揮していたとしても、外から見るとその努力が見えにくい時がある。 そのため、運がその成功の主な要因であるかのように思い込んでしまうのかもしれない。 しかし、ここで重要なのは、運が全く関与しない成功が存在するのか、という点である。 成功者の中には、確かに運が味方したことで結果を出した人間がいるかもしれない。 しかし、多くの場合、その背後には長年にわたる努力や計画があり、偶然の要素だけで成功することは稀である。 さらに、「運も実力のうち」という言葉には、自己啓発的な意味合いも含まれているように思う。 つまり、たとえ運が関与する状況であっても、自分の努力や心構えがそれを引き寄せるのだ、という考えもあると思う。 この視点に立てば、運を味方につけるためには自己成長が不可欠だというメッセージが込められているのかもしれない。 ただし、この考えにもリスクがある。 運という要素はコントロールできない以上、それに依存するのは不確実性を高める行為だ。 だからこそ、自分の努力や才能を信じ、それに基づいて行動することが成功への最も確実な道だと言える。 また、最近の心理学の研究では「運の捉え方」が人の行動に影響を与えることが示されている。 例えば、自分の成功をすべて運のおかげだ...

会話中に「絶対」という言葉を使う人間の信憑性

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言葉は人間にとって非常に重要なコミュニケーションツールである。 しかし、その中には理解しがたい概念も多く含まれている。 例えば「無限」や「永遠」という言葉は、時間や空間に限界を持つ人間には、無限の広がりや終わりのない状態を完全に理解することは困難である。 数学や哲学において、「無限」は特定の文脈で使用されるが、それでも直感的には捉えにくいものである。 詳しくは 無限とか永遠っていったい何なの? を参照。 また、理解しがたい言葉の中に「絶対」という言葉がある。 かつて、知人が「絶対というのは絶対にない」と言っていたことがあった。 その時は、その言葉の意味が良く分からなかったし、考えるだけ無駄なことだと思っていたので、「ふ~ん」て感じで相手にもしなかった。 しかし、後になって思い返すと、それは単に「絶対」という言葉の信憑性に対する疑念を示していたのではないかと感じるようになった。 日常会話で「絶対」を使う人々は、自分の意見や主張を強調するためにこの言葉を使うことが多い。 例えば「絶対に成功する」とか「絶対に失敗しない」といった具合である。 しかし、実際には「絶対」という言葉を使う人間の言葉がそのまま現実を反映するとは限らない。 「絶対」という言葉は、しばしば他人を納得させるためやその場を取り繕うために使われることがある。 また、詐欺的な勧誘や誤解を招く広告で「絶対に儲かる」などといった表現が使われることもあるので、注意が必要である。 今考えてみると、「絶対というのは絶対にない」という言葉は、むしろ人間無が使う「絶対」という言葉ほど信頼できないものはない、という警告を含んでいたのかもしれない。 確かに人間の言う「絶対」というのは論理的には「絶対」であることは稀である。 だからこそ、「絶対」を多用する人間の言葉を鵜呑みにするべきではない。 ちなみに「絶対」の定義を調べてみると、「他に比較するものや対立するものがなく、何ものにも制約・制限されないこと」となっている。 この定義は、ある種の理想や抽象的な概念に近く、人間が軽々しく使うのは適切ではないと言えるかもしれない。 イラスト:「イラストAC」chappy05 投稿:2021.5...