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4月, 2022の投稿を表示しています

「どうでもいい」という言葉が人間関係を壊す理由

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世の中には「どうでもいい」という言葉がある。 似たような表現として「どっちでもいい」や「何でもいい」という言葉もあるが、これらは相手に選択の自由を与えているようでいて、同時にその選択を放棄するようなニュアンスを持っている。 つまり、「自分には関係ない」「選ぶのが面倒だ」伝えているようなものだ。 もちろん、これらの言葉が必ずしも悪いわけではなく、時には相手への気遣いや優しさとして使われることもある。 しかし、言葉のニュアンスが伝わらなかったり、誤解を招いたりすることもある。 自分でも無意識に使うことがあるが、他人に言われると腹が立つことも多い。 ということは、自分が使っているときも相手をイライラさせているのかもしれない。 だからこそ、これらの言葉を使うときは慎重になる必要がある。 「どっちでもいい」 腹が立つレベル:💢(怒りレベル1) 二択のときによく聞く言葉で、「どちらも同じくらい良い」という場合もあれば、「どちらにも興味がない」場合もある。 相手の意図が見えにくいため、少しイライラすることがある。 しかし、こちらに選択の自由を与えてくれているとも取れるので、そこは大目に見るのが得策だ。 もし相手が「どっちかに決めてほしい」と思っているのなら、面倒でも選んであげるのが無難だろう。 ただし、後から「やっぱり違うほうがよかった」と言われると、さすがに腹が立つ。 その時は「どっちでも同じだから」と軽く受け流すのがいい。 「何でもいい」 腹が立つレベル:💢💢💢(怒りレベル3) 特に「何を食べる?」と聞いたときに返ってくる言葉。 「何でもいい」と言われるとこちらが選ぶしかなくなる。 しかし、選んだ後に「本当は違うものが食べたかった」と言われると、理不尽さに怒りを覚える。 「何でもいい」と言うなら、本当に何を出されても文句を言わないのが筋だが、そうでないことが多いのも現実だ。 この状況を避けるためには、「何でもいい」と言われる前に、いくつかの選択肢を提示して選ばせるのが効果的だ。 手間はかかるが、人間関係の摩擦を減らすためには必要な対策かも知れない。 「どうでもいい」 腹が立つレベル:💢💢💢💢💢(怒りレベル5)...

食肉加工工場で働いていた時に感じていた不満

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食べるということは人間にとって生きていくためになくてはならない大切な事柄のひとつ。 そのため、食べ物に関する仕事は世の中に多く存在している。 自分も以前、食肉加工工場で働いていたことがある。 食肉加工工場とは、牛肉、豚肉、鶏肉を原料に加工し、商品化する工場である。 ハムやソーセージ、味付き肉、スライスしてパック詰めするだけのものなど、さまざまな商品が精造されていた。 ここでは、食肉加工工場で働こうとしている方に知ってほしい、自身の経験や感じたことをまとめてみた。 勤める会社の規模によって違いはあるかもしれないが、多くの工場で共通する部分があると感じている。 着替えるのが面倒 工場に入る前には、会社規定に従って作業着に着替えなければならない。 上下の作業着、長い帽子、毛髪混入防止ネット、マスク、長靴、手袋、そしてエプロンも必要である。 また、アクセサリーなどの小物は異物混入を防ぐためにロッカーに置いておく必要がある。 着替えが習慣化すれば気にならなくなるが、面倒に感じることもある。 仕事が忙しい 作業は単純なことの繰り返しだが、とても忙しく感じた。 早いスピードで動く機械を担当すると、ついていくので精一杯だった。 手作業も忙しかったけど、機械の操作も同様に忙しかった。 全てが忙しかったのを覚えている。 大きな会社で自動化が進んでおり、役割分担が明確であれば、忙しさも異なるかもしれないが、それでも大変さは残ると思う。 危険がいっぱい 食肉を加工する際には、切ったり、熱を加えたり、挽いたりするする作業がある。 包丁やスライサー、チョッパー、茹でる窯など、工場内には危険な道具や機械がたくさんある。 作業中はもちろん、機械の洗浄時にも気を抜くと簡単に怪我をしてしまうため、常に注意が必要だった。 衛生管理は厳しい 食品を扱うため、衛生管理は厳しく行われていた。 抜き打ちで細菌検査が行われるため、作業場所は常に清潔な状態を保たなければならない。 日常的に清掃を行い、衛生管理に務めていたため、検査で問題が発生することはなかったと思う💧……。 人間関係は複雑 どんな職場でも、人数...

不思議な体験〜自分という存在と自己意識

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これまでの人生の中で自分は、何か不思議な体験をしたことがあったのか?……と思い返してみたが、自分はこれまでに「これぞ不思議」という出来事に遭遇したことが無い。 例えば、買い物に行って目当ての物を買ったつもりが、家に帰って確認したら違うものを買っていた……これは不思議でもなんでもなく、単なる誤解か勘違いだ。 人間の記憶や注意力なんて案外いい加減なものだから、誰にでもある日常のひとコマにすぎない。 じゃあ、「不思議な体験」とは何なのだろう?……。 簡単に言えば、現実では起こり得ないこと、科学的に説明がつかないこと、だと思う。 現実には起こらないこと――例えば、死んだ人が生き返るとか、時間が逆に流れるとか、燃えたものが元通りになるとか……。 さらに、幽霊を見たとか、UFOを目撃したとか、UMAに遭遇したとか……。 そんな現象が実際に目の前で起きたら、そりゃ誰だって驚くし、「不思議だ」と感じるだろう。 でも、残念だけど自分はそんなものを一度も体験したことがない。 だから、「不思議なことはこの世には存在しない」と結論づけたくなる。 もちろん、誰かが「こんな不思議な体験をした!」と語ったとしても、それを信じるのは難しい。 自分がその場にいなかったのだから。 信じるか信じないかは、結局のところ「個人の感覚」に任されている。 それでも、不思議な話をテレビやネットで見たり聞いたりするのは面白い。 いや、正直に言うと……大好きだ。 でも、だからといって「それは現実にもある」とまでは思えない。 実際に自分の目で見て、体験してみないことには、どうしても「実在する」とは断言できないのだ。 こういう話がいつまでも尽きないのは、「いない」「ない」を完全に証明することができないからだろう。 「見える人には見える」「周波数が合えば見える」「次元が違うから見えない」……そんな説明をされたって、自分にはどうしようもない。 結局のところ、「いる」「ある」と証明できなければ、永遠に「いるかもしれない」「あるかもしれない」というグレーゾーンから抜け出せない。 だからこそ、こういう話はエンターテイメントとして楽しむのがちょうどいい。 信じる・信じないにこだ...

ペットロスで苦しむ本当の理由~みゃんこを失って感じた喪失感

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19年間、共に過ごしたみゃんこを失ってしまい、心にぽっかりとみゃんこの形をした穴が空いてしまった……。 そして、重度のペットロスに陥ってしまい、心が打ちひしがれていた。 以前に飼っていたペットを亡くした際も、可哀想に思ったり、もっと大切にしてあげればよかったと後悔することはあった。 その時は、それがペットロスというものだと思っていた。 しかし、みゃんこのときはそれ以上の喪失感があり、もっと大切な何かを失ったような感じに囚われていた。  思い出を振り返る みゃんこが亡くなってからというもの、もっと美味しいものを食べさせればよかった、もっと構ってあげればよかった、もっとそばにいてあげればよかった、と次々に後悔が頭をよぎった。 その後悔は、これまでのときと似た感覚だったが、心の奥底から何かが込み上げ、突然涙が止まらなくなる。 これまでのときとは違い、なぜ、いつまでも心の穴が塞がらないのか?……。 長生きした分、共に過ごした時間が長かったから?、それとも、心の支えとして依存していた存在を失ったから?……。 その可能性もあるが、もっと大切な何かを忘れているような感じがしていた。 そこで、みゃんこが我が家に来てから晩年に至るまでのたくさんのエピソードを思い返してみた。 そういえば、みゃんこを迎えて数年後に自分の母親が亡くなった。 みゃんこにとって、いつも家にいて餌をくれていた人間が突然いなくなったことは、不思議だったに違いない。 また、みゃんこが亡くなる数年前に、15年生きた犬が亡くなった。 みゃんこと犬は、特に親しいわけではなかったが、一緒に散歩に出かけることもあり、決して疎遠な存在ではなかった。 いつも犬小屋にいた犬が突然いなくなったときも、みゃんこは不思議に思っていたのだろう。 そうやって振り返ってみて、ようやく気がついた。 長い間、みゃんこといろいろなことを共有してきたという事実に……。 暑い夏、寒い冬、心地よい日々……。 母親のこと……そして犬のこと……。 悲しみを共有した存在がいなくなり、これからは一緒に共有することができなくなったという現実を実感したとき、本当のペットロスの意味が分った瞬間だった。 あとがき 本当のペッ...