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ゼロリスク思考という病|不安が消えない人が動けなくなる本当の理由

これからは、安全が確認できて、絶対に失敗しなくて、確実にうまくいきそうなことだけに挑戦することにしたんだ。 👀「えっ?、それって慎重なんじゃなくて……もしかしてゼロリスク思考に陥ってない?」 ゼロリスク思考?……なんか難しそうだけど、それって何?。 👀「それはね、『危険が完全にゼロになるまで行動しない考え方』のことだよ」 えっ、いいんじゃない、安全第一ってことでしょ?。 👀「一見そう見えるよね、でも現実では通用しない」 どうして?。 👀「この世界に100%安全なものは存在しない……たとえば、仕事も、副業も、投資も、健康も、人間関係も……全部、確率の世界なんだ」 う~ん、そう言われるとそんな気もするけど……。 👀「だから、『まだ少し不安がある』って理由だけで、いつまでも動けなくなるんだ」 なぜ人はゼロリスクを求めるのか でも、なんでそんな考え方になっちゃうんだろう?。 👀「理由は単純だよ、人間の脳は生き残るためにできているからね」 生き残るため?。 👀「そう、人間は最悪の未来を想像できるから10%の危険を大きく感じてしまい、失敗を過剰に恐れてしまう、それはバグじゃなくて正常機能なんだ」 う~ん、そうかもしれないけど……。 👀「しかも今は、SNSで他人の失敗が山ほど流れてくる、ネガティブな情報は拡散されやすいし、専門家は常に警告している、不安が供給され続ける社会なんだ」 確かに、それはあるかも。 👀「だから、『やる気がない』んじゃない、不安が強化され続けているだけなんだ」 ゼロリスク思考がやる気を奪う理由 でも、やる気が出ない原因は怠けじゃないの?。 👀「そこが誤解なんだ、ゼロリスク思考が、無意識にブレーキを踏んでいる」 無意識に?。 👀「そう、ゼロリスク=完全な安心、完全な安心=危機感ゼロ、危機感ゼロ=行動エネルギーなし」 ……確かに……。 👀「皮肉だけど、人間は少し不安があるほうが集中できる、適度なリスクは、やる気の燃料になるしね」 本当のリスクはどっちか? でもさ、挑戦して失敗するリスクもあるよね。 👀「もちろんある、でも、もう一つのリスクもある」 ...

環境を変えるのがいちばん怖い

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人は変わりたいと思っている。 それでも、多くの場合、環境は変えない。 なぜなんだろう……。 それは、今いる場所が楽だからではない。 不満があっても、苦しくても、今の環境には「予測できる痛み」がある。 どれくらい疲れるか。 どこで傷つくか。 どんな失敗をするか。 人はそれを、すでに知っている。 環境を変えるということは、予測できない痛みに飛び込むことでもある。 うまくいかないかもしれない。 今より、もっと悪くなるかもしれない。 考え方も、価値観も、人間関係も、すべて作り直しになる。 だから人は、「今のまま」を選ぶ。 それは甘えではない。 人間として、ごく自然な防御反応だと思う。 たとえば、ブラックだと分かっている仕事でも、すぐに辞められない人は多い。 毎日つらくて、理不尽だと感じていても、やめた後の生活が想像できない。 次の職場は見つかるのか。 収入は下がらないか。 人間関係は今より良くなるのか。 それらはすべて、「分からない不安」だ。 一方で、今の職場のつらさは、もう分かっている。 どこが苦しくて、どこまで耐えればいいかも、ある程度は分かっている。 だから人は、つらいと分かっている環境を、選び続けてしまう。 人はなぜ今の場所を選び続けるのか 人は、今の環境に不満があっても、そこに留まることを選ぶ。 それは、変わりたくないからではない。 むしろ、変わった先の自分を想像できないからだと思う。 環境を変えるということは、それまでの見通しを一度、手放すとことでもある。 評価の基準は変わり、人間関係も作り直しになり、自分が何者なのかも、最初から説明し直さなければならない。 考え方は、環境の中で形づくられる。 だから環境が変われば、今まで正しいと思っていた考え方が、通用しなくなることもある。 それは成長でもあるが、同時に大きな不安でもある。 人が今の環境を選び続けるのは、楽だからではない。 「自分でいられる範囲」を、できるだけ守ろうとしているからだと思う。 外から見れば、それは停滞に見えるかもしれない。 けれど、変わらない選択にも、意味がある。 人は、耐えられる範囲でしか、選択を変えられないのかもしれない。...

努力は本当に平等なのか?

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ある時期まで、オリンピックが好きだった。 開催が近づくとワクワクして、始まるとテレビを見るのが楽しみだった。 世界中の選手が、努力のすべてをぶつけ合う舞台。 そう思っていた……。 けれど、世の中の仕組みを少しづつ知るにつれて、見え方が変わっていった。 オリンピックに出場できる人間は、ただ努力した人ではない。 幼いころから協議に打ち込める環境があり、時間があり、お金があり、支えてくれる人がいた人間だ。 つまり、すでに「環境に恵まれた人たち」だけが集まった場所でもある。 その中で、さらに努力を重ねた人たちが競い合っている。 もし、環境の条件が本当にすべて同じだったとしたら、世の中には、今よりもっと「すごい人間」がいくらでもいるのだと思うようになった。 たとえば、今日の食事さえ満足に取れない子どもが、オリンピック選手と同じ環境で育っていたら、もしかすると、余裕で金メダルを取るような人間だったかもしれない。 そう考えてしまってから、オリンピックは、努力の祭典というよりも、人類があまり触れたくない部分を、きれいに覆い隠すための祭典のように見えるようになった。 それが正しいとか、間違っているとか、そういう話ではない。 ただ、そういう見方が一度できてしまってからは、以前のような気持でオリンピックを見ることができなくなってしまった。 努力は、本当に平等なのだろうか……。 努力を語れるのはどんな人間なのか 努力は美しい言葉だと思う。 誰もが否定しにくく、正しそうに聞こえる。 だからこそ、簡単に使われる。 だが、努力という言葉を使えるのは、本当はどんな人間なのだろうか。 少なくとも、努力するための環境が与えられていた人間だ。 時間があり、失敗しても立ち直れる余地があり、挑戦を許される立場にいた人間。 そうした条件を、無自覚なまま持っていた人ほど、努力を「本人の問題」として語りやすい。 逆に言えば、努力する以前に、生きることだけで精一杯な環境にいた人間には、努力という言葉そのものが、遠く感じる。 それでも社会は、結果だけを見て、努力したか、しなかったかを判断する。 環境の話を飛ばして……。 オリンピックが、環境をクリアした人間同...