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唯一無二の存在だと自覚して生きる

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死後の世界の話になると、必ずといっていいほど出てくるのが転生の話。 人間を含む、あらゆる生命体には魂といわれるものが宿っているとされ、その生命体が死を迎えた後に、その個体から魂だけ抜け出て、また別の生命体に宿り生まれ変わるというもの。 自分が存在している今現在を「現世」といい、自分が生まれる前に存在していた生命体に魂が宿っていた頃を「前世」、自分が死んだ後に生まれ変わるであろう生命体に魂が宿っているこ状態を「後世」と呼んでいる。 なんとなく思うことは、たとえ転生や魂があったとしても、その器となっている生命体の活動が終われば、それはそれでお終いのような気がする。 そう思うのは自分には前世の記憶がまったくないからであり、たとえ前世があったとしても記憶がないのであれば現世ではなんの役にも立たない。 なので、現世での知識や経験も来世には持ち越せないはずである。 人間が人間に転生するとかって話になると「因果応報」という話もセットで出てくる。 前世で悪い行いをすると現世で悪い報いを受けるとか、現世で良い行いをすると来世では良い報いを受けるとかなんとか……。 転生では、前世の大事な記憶が引き継がれないのに因果応報だけが引き継がれるなんて、これもなんか変な話である。 その人間が蒔いた種は、その人間が生きている時に刈り取らせればいいのに、わざわざ因果応報だけ持ち越すなんて……。 あっ、魂が同じだからそれでもいいのかな、でも前世の記憶がなければの現世での悪い報いも、生まれ育った環境のせいにしたり、人間関係のせいにしたり、運のせいにしたりすると思う。 ただひとつ言えることは、魂が同じでも記憶が無ければ、前世と現世の人間は別人である。 現世と来世の人間も別人である。 もちろん前世と来世の人間も別人。 転生というものがあったとしても、結局は別人なんだから、今現世に存在している自分自身がこの世では唯一無二の存在である。 なので、このことを理解して、今を大切にやる気を出して生きていかなくてはならない、と思った……。 前世占いというものをやってもらおうとも考えたことがあったが、もし占い師に「あなたの前世はミジンコで、ある日出会ったメダカに『仲間の居場所を教えれば

人生最後の日~明日は我が身を意識する

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ふと考えたことがある……。 今日が、自分の人生の最後の日だと何者かに告げられた時に、いったいどんなことを思うんだろうと……。 ほとんどの人間は自らの人生を後悔するらしいけど、自分はいったいどんなことを後悔するんだろう……。 たぶん、誰もが思うようなことだと思う。 やりたいと思っていたけどやれなかったこと、もしくは、いつかやめようと思っていたけどやめられなかったこと、だと思う。 ああしておけばとかこうしておけばとか、あんなことしなければとかこんなことしなければとか、いつもと変わらないことだと思う。 その日が最後なので考えられるのは過去のことだけなのに、もしかしたら現状をかえられたのではないのだろうかとか、一生懸命考えてしまうと思う。 もう後が無いからどうしようもないのに……。 そしてその日もいつもと同じよに、あっという間に時間は過ぎてしまうだろう……。 常日頃から人生最後の日に後悔しないようにいくら頑張っていたとしても、人間には欲があるので後悔しないようにというのは不可能な気もする。 なので、人生の最後の日だって、いつものようにしていればいずれ時間が来てしまう。 人間の人生なんてそんなものだと思う。 そんな後悔とかよりももっと苦しいのは、絶望を感じることだと思う。 もし自分のこれまでの人生が、人間関係が良好で、有り余るお金があって、やりたいことが何でもできて、毎日幸福を感じながら生きてきたとしたら……。 それがもう一日限りで失われるとしたら……。 自分だったらその幸福を失う恐怖に耐えられない。 それが絶望というこの世で最も不幸なことだと思う。 だったら、なんだかんだ後悔したほうがよっぽどましなような気もする。 でも、もしかしたら、幸福な人生を歩んできた人間の中には、人生最後の日だと告げられた後でも、この世に生を受けたことに感謝しながら終焉を迎える人間もいるかもしれない。 自分もいつしか、そういう人間になりたいと心から願っている。 明日は我が身をつねに意識する いつか必ず自分の命が尽きるときがくる、生命体として生まれてきた以上、絶対に避けては通れない……。 それは、もしかしたら明日かもしれない。 そんなふうに思うようになったのは何年前だっ

心が苦しくなると体に異常が出る

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人間関係で嫌なことがあると、将来も同じような事が起きるのではないかと心配し、不安が生まれてしまう。 不安で頭がいっぱいになると、解決策を探し始め、夜寝るときに「こうすれば」とか「ああすれば」とかいろんなことを考えてしまい、反芻が始まってしまう。 この状況になると、胸の中心、心臓のある辺りが苦しく感じることがある。 あれ?……頭で考えているのになぜ心臓のある辺りが苦しくなるんだろう……ここは頭が痛いとかだと思うんだけど……。 なんか不思議だ……。 嫌なことを忘れようと違うことを考えたりすると一瞬は忘れられるが、心臓の苦しみが続く限りすぐに思い出しまい、反芻が止まらなくなる。 この状況は結構つらく、夜寝るときに反芻が始まると朝まで続くときもある。 ある日、もしかしたら心がある臓器だから心臓という名前になったのかもしれないと考えたが、どう考えてもあらゆる感情は脳で処理していると思う。 その後、いろいろ調べてみたら脳以外に神経細胞が集まっている臓器が心臓と腸だということが分かった。 嫌なことがあって将来に同じような嫌なことが続くかもしれないときに、心臓のある辺りを苦しくさせて自らに警告を発していたのかもしれない。 嫌なこととは、放置しておくといずれ自らの命にかかわる事態に発展する可能性があること。 ということは、腸の不調も同じ理由かもしれない。 便秘や下痢のときは食べたものの影響だと思っていたが、もしかしたら精神状態の影響なのかもしれない。 自分の体験から言えば、あまりにも精神的に衝撃を受けたときに下痢が止まらなくなったことがある。 なので、もしかしたら腸にある神経細胞からの警告だったのかもしれない。 便秘にも悩まされることがあるが、便秘になるときも何かしらで精神状態が悪かったせいなのか、どんな関係があったのかは未だに分からないが、何かしらのストレスがかかっていたのかもしれない。 それとも、食物繊維を取らなかったから……。 精神状態は食べたものにも影響されるらしいので、食事のバランスを気を付けていくべきだと思う。 イラスト:gontyan 投稿:2022.11.30 水曜日

耳掃除のやりすぎに注意

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耳かきは気持ちのいい行為である。 耳の穴の中を掃除すると、耳垢が取り除かれて綺麗になり、なんとなく耳の聞こえが良くなった感じもするので、気分も良くなり、やる気も湧いてくる。 ちょっとした心のデトックスにもなると思う。 以前は耳かき専用の道具を使っていたが、現在は使用後にそのまま捨てられる使い捨ての綿棒を使用している。 これまで使用していた綿棒は白い色だったので、いまいち耳垢の取れ具合が分かりにくかった。 そこで、使い切ったタイミングで耳垢が見やすくなるように黒い色の綿棒に変更し、さらに根こそぎ取れると噂されるスパイラル状のめん棒を使ってみることにした。 【黒い色⇨結果が見えやすい】 【スパイラル状⇨根こそぎ取れる】 この新しい綿棒のメリットに満足しつつ、完璧な耳掃除を目指してぐりぐりと耳垢を取り除いた。 そして、スッキリした。 ところが、数日後、耳の中に何かが詰まっているような違和感を感じた。 あれだけ丹念に耳掃除をしたのに、まだ耳垢が残っていたのかと思いつつ、頭を横にして手のひらで耳をポンポンとしてみたら、なんと、出てきたのはかさぶただった。 たぶん、スパイラル状の綿棒で耳のなかをぐりぐり掃除したので、皮膚が傷つき出血したと思われる。 綿棒だから大丈夫だと思っていたが、意外と耳の穴の中はデリケートだった。 いや、ぐりぐりしすぎたかもしれない……。 炎症とかにならなくて良かったと思いつつ、今後はもっとソフトに耳掃除をしようと心に誓った……。 どこかで聞いた話だが、耳垢は耳の構造からして自然と出てくるらしい。 なので、耳掃除は不要らしいが、やっぱりムズムズすると耳垢を取りたくなる。 人間にとってかなり重要な器官なので、細心の注意を払って耳のケアをしていかなければならないと感じた。 なので、耳掃除はほどほどに……。 2022.11.20 日曜日

【他人の評価】白い紙に黒い点と黒い紙に白い点

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スポンサーリンク 紙の色に例えているのは自分から見た他人に対しての大雑把な評価である。 白い紙とは自分にとっていい人間を指し、黒い紙とは自分にとって嫌な人間のことを指す。 自分にとっていい人間にたまたま嫌なことをされるのが白い紙に黒い点が付くことで、自分にとって嫌な人間にたまたまいいことをされることを黒い紙に白い点が付くことである。 いい人間に嫌なことをされたり、嫌な人間にいいことをされたりした自分の心の状態を紙の色で表そうとしてるんだけど……。 実際には白い紙に黒い点があったり黒い紙に白い点があったりしても、そんなには気にならないと思う。 心の状態も同じで、いいと思っている人間に嫌なことをされたり、嫌だと思っている人間にいいことをされたりしても、人間にはいろんな側面があるのでそういうこともあるだろう、で済むと思う。 しかし、人間の心はそう単純じゃなかった。 人間の心はネガティブな状態が基本らしいので、いいと思っている人間から嫌なことをされたりして白い紙に黒い点が付いてしまうと時間の経過とともに黒い点が大きくなって不信感を抱いてしまったり、嫌な人間にいいことをされたりして黒い紙に白い点が付いても何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまい白い点はいずれ消えてしまう。 なぜこんなめんどくさい状態になってしまうのかを考えてみたら、原因は意識的に他人にレッテル貼っててしまっていたからである。 ただでさえめんどくさい人間関係をさらにめんどくさくしているだけだった。 こうなったら自分以外の人間は白と黒が混ざった灰色なんだと思い込ませることにした。 あらゆる人間は自分にとっていい人間かもしれないし嫌な人間かもしれない。 言動が信用できる人間かもしれないし信用できない人間かもしれない。 困ったときに助けてくれるかもしれないし見殺しにされるかもしれない。 勝手に自分で張ってしまった「あの人間はこういう人間だ」というレッテルのせいで心を煩わせているより、あらゆる人間に対しての紙の色の例えは灰色にする。 灰色=グレーというとなんか曖昧な感じがするけど人間はそんなもんだと思う。 人間関係をもっと楽にするためには他人に対してあまり関心を持たなくしてフラットな心の状態を維持すること

過去を後悔するより潔く諦めてみる

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「後悔先に立たず」という諺がある。 この言葉は、起きてしまった出来事を後から悔やんでもどうしようもないので、慎重に考えてから物事に取りかかった方が良い、ということを促す教訓を含んでいる。 この諺を考案した人間はもしかしたら、避けられない過ちを犯してしまい、その後悔から逃れられない人生を送っていたのかもしれない。 後悔しているときの感情を思い出すと……とても嫌な感じがする。 かけがえのないものを失ったりすると寂しく感じたり、取り返しのつかないことをやらかすと悔しく感じたり、何もしてなくて状況が悪化したりすると虚しく感じたり、あの時ああしていればとかこうしていればとかっていろいろ考えてしまい、挙句の果てに反芻が始まって夜も眠れない時もある。 不可能だと分かっていても、なんとか過去に戻ってやり直せないのか、なんてことまで考えてしまう。 どうしようもないのに……。 そうやって考えていたときに、ひとつだけ分かったことがある。 どうしようもないことはどうすることもできないので諦めるしかないってことが……。 もしかしたらなんとかなったんじゃないか、なんていつまでもくよくよ思ってしまうのも人間の欲がはたらいているせいなのかもしれないけど……。 欲を払拭して過去を変えることなんてできないとキッパリと割り切ることができれば、もしかしたら人生をもっと楽に送れるのかもしれない……。 そして、過去を振り返って嫌な気分になるより未来に希望を持って良い気分になっていたほうがやる気も増すような気もする。 もし、今この瞬間が楽しくて嬉しくてワクワクしていて将来が希望に満ち溢れていたら、仮に過去の失敗やどうすることもできなかったことを思い出してしまったとしても後悔するという感情は最小限に抑えられるかもしれない。 過去の出来事は捉え方によって変えることができると聞いたことがある、しかし、その時の心の状態で変わってしまうので期待できない。 そんなことより、人間の人生はかけがえのない瞬間の連続でできている、次の瞬間は未来からしかやってこない。 戻ってこない過去に時間を使うより、やって来るかもしれない未来に、希望を持って想い描いていたほうがいいと思う。 イラスト yo

気分を良くして前向きに生きる

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毎日変化するもののひとつに、心の状態、つまり気分がある。 この気分は、体調や環境、過去や未来のことを考えている時、さらには目の前にいる人間の言動ひとつでも変化してしまう……このように非常に厄介なものである。 この気分の厄介なところは、仮に同じような物事を考えたり思い出したりしたとしても、その時の気分の良し悪しで、その物事の捉え方が異なってしまうことである。 気分が良ければプラス思考になり、過去の失敗や嫌な出来事を糧にして未来に希望を託そうとする。 しかし、気分が悪ければマイナス思考になり、過去の失敗や嫌な出来事に縛られ未来を不安で包んでしまう。 気分が良ければポジティブになり、やる気が湧いていろんなことに挑戦したくなるが、気分が悪ければネガティブになり、やる気を失い、行動が制限されてしまう。 これは日常生活にも支障をきたしてしまうし、なによりもやる気が喪失するのは大問題である。 せっかくの人生なんだから、良い気分の状態を毎日持続して、有意義な時間を過ごしていきたいと思う。 しかし、この気分の厄介なところは自分でコントロールするのが難しいことである……でも、意識して変えていくことはできるはずである。 それにはまず、自分の気分は自分でなんとかするように意識する、なるべく毎日の気分をフラットな状態か、あるいは良い状態に保つよう心がける。 体調が原因で気分がすぐれないと思うなら規則正しい生活を心がけたり、体調管理を意識して生活する。 早寝早起きで充分な睡眠を取ったり、暴飲暴食を控えるなどして体に負荷をかけないことを心がける。 環境が原因で気分がすぐれないと思うなら環境を整えたり、変えたりする。 職場なら気分を害する人間とは距離を取る、もしくは転職するなどを考慮する。 人間関係が原因で心を病んでしまうと気分をコントロールするのはかなり難しくなってしまう。 不安や悩みが原因で気分がすぐれないと思うなら本を読んで先人の知恵を借りたり、信頼できる人間に相談したりする。 そうやって上手く気分をコントロールしてプラス思考を維持できれば、やる気がでて有意義な人生を送れる

幸せの感じ方は人それぞれ

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幸せの感じ方は個人によって異なるが、自身の体が欲していたり求めていたりすることを満たした時に、ほとんどの人間は幸せというものを感じていると思う。 逆に、自らの身体が求めるものを満たせない状況が続くと、身体からは不幸せだという警告が発せられているはずである。 身体からの警告を無視すると、命の危険が生じる可能性があるものもある。 いちばん身近に幸せを感じることは、やっぱり生命活動を維持するのに必要なものを補充された時だと思う。 人間の体の半分以上が水分なので、体内の水分が足りなくなると直ぐに喉が渇いたというかたちで水分補給を促してくる。 それだけ人間の体にとっては水分維持の重要性が高いから、乾いた喉を潤しただけで幸せを感じるようにできていると思う。 人間は食べなくても蓄えた脂肪をエネルギーに変換して、ある程度生きながらえることができるらしいが、人間の体には水分を蓄えておく代替機能が存在しないので摂取できない状態が三日くらい続いてしまうと命が危険な状態になってしまう。 猛暑日だったら一日も持たないかも……。 次は食べることにも幸せを感じると思う。 毎日の食事ではそんなに幸せは感じないと思うが、長期間食べることができなかった後や、好物を我慢した後などに食べると、かなりの幸せを感じられると思う。 あとは生命維持に欠かせない体温調整。 暑くてどうしようもないときに涼しい場所に行くと幸せになるし、寒くてどうしようもないときに温かい場所に行っても幸せを感じることができる。 痛い、かゆい、具合が悪いなどの症状が良くなった時も幸せとともに健康のありがたみも感じられる。 人間の体は何かしらの生命の危機になりそうなときに、命を守るために不幸せを感じさせ、達成したときにご褒美として幸せを感じさせているのかもしれない。 こうやってみると人間が幸せを感じられるシステムは、自らの命を守るため、状態を安定させるため、健康を維持させるためにあるような気もする。 身体が望むもの以外の幸せの場合、例えば、何かを手

心の自由を求めて

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人生は自由という言葉で描かれていることが多い。 しかし、その自由というものは現実には簡単に手に入るものではない。 社会で生きる中で、我々は様々な規則や制約に縛られ、理想の自由は遠い夢のように感じてしまっているからである。 自由の現実と制約 「人間は生まれながらにして自由である」という言葉を聞いたことがある。 しかし現実は厳しく、我々は既に様々な制約に囲まれた状態で生まれてくる。 少なからずの自由は与えられているが、それは特定の条件や制限の中でのみ成り立つものであり、本当の開放感を味わうことは難しい。 例えば、籠の中の鳥が制約された範囲内でしか飛べないように、我々も社会や人間関係によってその自由は規定されてしまっている。 このような状況がストレス社会と呼ばれている原因なのかもしれない。 人間関係と心の自由 特に人間関係は悩みの元凶とされている。 心の自由を求めるなら、まずは人間関係に焦点を当てることが最優先なことだと思う。 社会の制約を変えるのは難しいが、自分の心は自分次第で変容させていけると信じている。 自由を取り戻すためのステップ 1.解釈を変える :同じ状況でも捉え方次第で感じ方は変わってしまう、ポジティブな解    釈をすることで、心の余裕が生まれる。 2.思い込みを外す :自分自身の固定観念を見直し、必要のない思い込みを取り除く、これにより、新しい視点を持つことができる。 3.煩悩を減らす :物欲や執着を減らし、心の平穏を保つ、物質的な欲望から解放されることで、内面的な事由が得られる。 積極的な生き方で自由を手に入れる 人生は自分次第である。 自由を追求するためには、現状に満足せず、常に自分を高める努力が必要である。 積極的に生きることで、心の自由を手に入れることができると思う。 幸福な生き方を追求し、真に自由な人生を目指す。 投稿:2022.8.25 木曜日 イラスト:ちょこぴよ

ダンゴムシと遭遇したのでつついてみた

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ある日、除草作業で休憩していた時の話。 ふと地面を見ていたら、目の前にダンゴムシが現れた。 なぜか子供の頃のように、つついてみたくなってしまった。 ドクタースランプのアラレちゃんもそこに💩があるからつついてしまう、という衝動と同じである。 さっそく小枝を拾ってつついてみたら、やっぱりダンゴのように丸くなった。 ふとその時、ダンゴムシって幼虫のような姿だけど、あれで成虫なんだろうか?サナギ時代はあるんだろうか?風の谷のナウシカの王蟲はダンゴムシをモデルにしたんだろうか?など、いろいろと疑問が湧いてしまった。 ダンゴの後にムシと付くが、昆虫の仲間じゃなくてエビやカニのような甲殻類の仲間だということはどこかで聞いたことがある。 それなのに昆虫寄りに考えてしまい、成虫なのかとかサナギ時代はあるのかとかの変な疑問が浮かんでしまった。 うやむやにして将来にまた同じ疑問を持ってしまうのは時間の無駄のように感じたので、現代の便利アイテム、スマホで調べることにした。 検索中・・・ やっぱり昆虫の仲間じゃなくエビやカニと同じ甲殻類の仲間だった。 う~む、水中で生息しない甲殻類がいたなんて……。 甲殻類は脱皮を繰り返して大きくなるんだから、昆虫の変態みたいに大幅に形を変えることはない。 変態しないということは、サナギ時代もない、なので、よく見るあの形が成虫の姿である。 あとは、王蟲のモデルになったかどうかであるが、調べてみたら、三葉虫だとかモスラだとか出てきたが何をモデルにしたのかまでは分からなかった。 ダンゴムシという名前だが、丸くなるからダンゴとか、ムシじゃないのにムシって付いたりするのは、あだ名かなんかで正式名称はもっとかっこいい名前が付いているのではと思っていたが、正式名称はオカダンゴムシという名前だった、やっぱりダンゴムシなんだ……。 なんか王蟲に似ているのにダンゴムシと呼ぶのは寂しく感じたので「マイクロ王蟲」というあだ名をつけることにした。 ダンゴムシに似ているがつついても丸まらないワラジムシといわれている生き物もいるらしい。 そういえば……子供の時にいくらつついても丸まらないから子供ながらに勝手に「やる気のないダンゴムシ」と思ってい

返報性の原理を意識して人間関係を良好にする

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人間は何かをしてもらったり、何か物を貰ったりすると、それに対してお返しをしたくなる。 これは返報性の原理と呼ばれ、人間なら誰しもが持ちあわせている心理作用である。 確かに、自分がこれまでの人生で経験したことと照らし合わせてみた場合、返報性の原理が当てはまる場面はこれまでにたくさんあった。 やっぱり、何かをしてもらったり何か物を貰ったりして、こちらが有難いとか嬉しいとか助かったとか感じた場合には、感謝の気持ちとともに、それ相応のものをお返ししたくなってしまう。 なので、これはこれで良いことだとは思う、ていうか返報生の原理が働くのでお返しないではいられなくなってしまう。 相手にお返しするものが、喜ばれる行為や物なのかどうかをちゃんと考えて、恩着せがましくなければ人間関係は良好になると思うので、どんどん作用させていきたいと思う。 そういえば、良いことだけに注目していたが、悪いことにも返報性の原理があるんだろうか?……。 調べてみたら、敵意の返報性というものがあるのが分かった。 これも、嫌なことをされたら相手が同じように嫌がることをやり返したくなるという心理作用だが、人間だったらこちらの敵意の返報性のほうが日頃意識する割合が高いのかもしれない……。 例えば、嫌みを言われたから嫌みを言い返す、文句を言われたから文句を言い返す、とか……。 他人の言動でネガティブな感情が湧いてきたら、もしかしたら知らずのうちに他人が不愉快になる言動を先に言ってしまっていて、それが敵意の返報性により相手から返ってきているのかもしれない。 でも、自分の言動が原因だと気づける人間はなかなかいない、向こうが最初に言ってきたと思い込み、そこで敵意の返報性を使って反撃してしまうと、簡単に人間関係はこじれてしまう。 だいたいがそんな感じだけど……。 なんかこうやってみると他人は自分を映す鏡みたいにも感じる。 他人の心が美しく感じるときは、自分の心が他人という鏡に映し出されて美しく感じているのかもしれないし、他人の心が醜いと感じるならば、自分の心が他人という鏡に映し出されて醜く感じてしまうのかもしれない。 良い行為の返報性だけを意識してお返しをして、悪い行為の返報性を意識しないでなるべくお返しをしないよう

自転車の動きには細心の注意を払わなければならない

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スポンサーリンク 比較的交通量の少ない住宅街を車で走行していた時の話。 この道路には車道よりちょっと高くなっている歩道が設けられている。 少し先の左前方の歩道に自転車が走行しているのを発見した。 自転車は路側帯ではなく歩道を走行していたので、こちらが別段注意していなくてもそのまま自転車の横を通り過ぎることができると考えていた。 しかし、この先にある交差点の左手前にあるコンビニに買い物に行く途中だったので、途中で追い抜いてもコンビニの駐車場に入る時、追い抜いた自転車が後ろから来るのを気にかけながら左折しなければならない。 それよりも自転車がコンビニの横を通り過ぎたのを確認してから左折したほうが良いと思ったので減速することした。 減速してからも自転車の動きを見ていたその時、なんと、自転車はちょっと高い歩道から右側に下りて車道に侵入、目の前を横切り反対側の歩道に行ってしまった……。 あぶなかった、もう少しで接触事故を起こすところだった。 驚いたのは、こちらが自転車を発見してから反対側の歩道に行くまでに、その自転車の運転者はいちども後ろを振り返らなかったことである。 いちども、後方確認をしなかったのである。 自分が自転車を運転していた場合、後ろから車が来るかもしれないので追突されないように後方確認をするのが当たり前だが、それが当たり前じゃない人間もいる。 あのまま減速しないで走行していたら間違いなく接触事故を起こしていたと思うと……。 そのときは事故んなくて運が良かったという安堵感よりも、後方確認もせずに車道に侵入し、ヒヤッとさせた自転車の運転者へ対しての怒りでいっぱいになりそうになったが、いつものようにすぐに頭を切り替え冷静になるように自分に言い聞かせた。 世の中ではこんな感じになった時、事故につながらなくて良かったと思うよりも、危険な行為をされた、という怒りのほうが優先されてしまって居ても立ってもいられなくなり煽り運転等に発展していくのかもしれない。 車の運転中にイラッとしたときは世の中にはこういう人間もいるんだ、と理解してその事柄を俯瞰してみるように心がけている。 あとは、自分の当たり前が必ずしも他人の当たり前じゃないことを意識する

「羨ましい」という感情に心が振り回される

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どうして人間にはこんなにもいろんな感情があるのだろうか?……。 そして、この感情というものはことあるごとに変化する。 例えば、過去のことを思い出しても、未来のことを思い描いても変化するし、今この瞬間にも何かしらの理由で変わることもある。 その度に、めんどくさいなぁ~と思ってしまう。 特に、やる気が削がれる他人への羨ましさを感じてしまうことは結構ある。 これは、他人との比較から発生する感情で、対象や状況によって変わる厄介なものだ。 ポジティブな心の状態なら他人と比較しても、自分は自分、他人は他人と割り切れる。 それに、羨ましい感情から憧れに発展すれば、いつしか自分もそうなってやるという向上心が芽生えてやる気が発生する可能性もある。 しかし、これがネガティブな状態だと、羨ましさが嫉妬や怒り、憎しみに変わってしまう。 自分が嫌いな人間と比較してこちらが羨ましいと思った場合、仮に相手がそのことで優越感に浸っている可能性があると考えてしまうと、腹まで立ってくるようになる。 そして、同時に自分はその人間よりも劣っていると感じて劣等感にも悩まされるようになる。 これだけでも心が苦しくなり疲れてしまう……。 だんだんとそんなことに捕われている自分自身にも腹が立ってくるし、もしその人間と同じような境遇に生まれていたら、同じような環境で育っていたら、こんな思いはしなかったのに、と考え始めるととてつもなく虚しいという感情も湧き起こる……。 ネガティブな状態が長く続くと心まで蝕まれていき、悪循環が続いてしまうと自らを嘆いてしまったり、最後は自らの境遇や環境すら呪ってしまうかもしれない。 なので、比較ばかりしていたらいつまでたっても羨ましい感情に振り回されてしまって、せっかくの人生がつまらなくなってしまう。 運の要素が強いものはしょうがないっていうのは分かっているんだけど、分かっているのについつい比較してしまう癖みたいなのをのを何とかしないと……。 苦し紛れの対策としては他人との接点をなるべく減らし、羨ましいと思う頻度を減らしていくしかない。 どうしてもそういうシチュエーションになりそうなら、無理矢理ポジティブ思考にして自分を誤魔化していく。 思い出して腹が立ちそうになったら推しや趣味などの没頭できる

他人は変えられないけど自分なんてもっと変えられない

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スポンサーリンク 人間関係を改善できるとかでよくいわれているのが、他人は変えられないので自分を変える、とかっていうのがよくある。 確かに、何がどうであろうと他人を変えるのは難しいと思う。 ていうか不可能に近い。 実際に経験したことがある事柄で、職場で毎日、腹が立つ行為を繰り返していた人間に強い口調で注意を促したことがある。 直後からしばらくの間は改善の兆しが見えたが、時間が経つにつれだんだんと元に戻っていってしまった……。 また同じことを言わなければならないのか、と考えただけで心が疲弊していってしまった。 どうしようもない部下をもった上司の気持ちが分かるような気がする。 そのときに、ふと思ったことがある。 自分が逆の立場で他人に指摘され、言われたことに腹が立っても自分なりに納得したのならば二度と同じ行為は繰り返さないと……。 しかし、それは自分がそう思っているからであり、他人も同じように思っているとはかぎらない。 それは、自分の価値観で他人を見ていたということ……。 自分はこんなときはこうするから他人も同じようにするだろうという甘い考えがあったから……。 結局、変えようとしたが変わらなかった人間に対して腹が立ち、幻滅し、悩んだ末に心を疲弊させていったのだった。 このときに自分の価値観と他人の価値観は違うものであり、自分の価値観で他人を見てしまうと人間関係はおのずと悪化していくだけだ、ということが分かった。 ということもあり、他人を変えることは諦めざるをえない結論に達した。 あとは、人間関係の改善でよくいわれている自分を変えていく、これが人間関係改善の近道だと思っていたが、心のどこかでは他人の言動のせいで自分の心が疲弊しているのに、なぜ自分が変わらなければならないのか、という矛盾に長い間悩まされることになる……。 疑問に感じつつも、怒りを抑えながらいろんなことを試してみたり考え方を変える努力をしたりしてみたが、自分を変えていくのは、これもまた難しい。 つねに意識しなければならないし、とてつもなく長い時間が必要だった。 そして、やっと気づいた、他人は変えられないけど自分も変えるのってもっと難しいってことに……。 よくよく考えてみると、

スマートフォンで便利だと思った画像検索

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スマートフォンは確かに便利である。 本当は携帯できる電話としての役割が主なのであるが、今では電話機能はオプションのひとつのように感じられてしまう。 カメラ機能は標準装備であり、動画の撮影やテレビ視聴、音楽鑑賞も可能である。 さらに、インターネット接続による情報収集やゲームプレイ、必要なアプリをインストールすればパソコンのような感じでも使える。 今では小さなパソコンみたいになっているが、やっぱり画面が小さいのでパソコンでするようなことをスマートフォンでするのは辛いものがある。 なので、スマートフォンは持ち歩いている時に便利に使える機能だけを使い、パソコンでする方が楽なことはパソコンでするように使い分けている。 今までどおり電話や情報収集をメインで使っていくと思うが、その中でも便利だと思ったのがグーグルレンズという機能だった。 その機能とは、目の前にあるものの名前が分からないときに、スマートフォンのカメラ機能を使って写しだし、同じようなものが候補として検索され、どう見ても同じものだと確認できればそのものの名前を知ることができる、というもの。 世の中のありとあらゆるものには名前がつけられているはずである。 目の前にあるものの名前が分からなければ何のためにあるのかを調べるために検索するのもめんどくさいし、用途が分かっているが名前が分からない時などで誰かに説明したりするときもめんどくさい。 例えば、田んぼに白くて丸いものが転がっていた時に検索窓に入力した内容が「田んぼ 白くて丸いもの」と見たままを入力して初めてそれが「ホールクロップサイレージ」だということが分かった。 検索も見たままを入力しただけで何だか分かったので凄いと思っていたが、グーグルレンズではカメラ機能で写しただけで分かってしまうのでとてつもなく便利になったような気がする。 漫画「デスノート」で「死神の目」という人間の名前が分かる能力というものがあり、そんなふうに見ただけでものの名前が分かる能力があったらいいなあと思っていた。 今ではスマートフォンを持ち歩いていれば名前が知りたいものに遭遇したときにグーグルレンズの画像検索を利用すれば名前を知ることができる。 それでも、最初に使ったと

寝坊助が早起きできるようになって感じたメリット

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夜に寝床につくときにはいつも「朝なんて来なければいい」と思っていた。 特に日曜日の夜や連休最後の日の夜などは……。 仕事の日はギリギリまで寝て、休日は午後に起きるのが当たり前……最悪、夕方まで寝ていたこともある。 そんな人間が今は早起きしている、いったい何があったんだろう……自分のことなんだけどね……。 結論から言うと、早く寝る習慣をつけたことで早起きできるようになった……ただそれだけである。 しかし、長年染みついた習慣を変えることは容易ではなかった。 朝の忙しさに追われていた時期、忘れ物が多かったことを思い出す。 ハッキリ言うと寝坊助にはデメリットしかなかった。 車の鍵を忘れたり、お弁当を忘れて外で昼食をとったり、財布を忘れて通勤途中に必ず飲んでいた缶コーヒーも買えないこともあった。 その他にも何かしらの物を忘れたエピソードは数知れず、前の日にちゃんと準備しとけばいいと思うかもしれないが準備していても忘れるときは忘れるのが寝坊助である。 さらに休日になると、寝ていたいという誘惑に負けて目が覚めてもまた寝てしまう。 雨の日はさらに深い眠りにつく、あの二度寝の気持ちよさは最高だった。 こんなにも朝が苦手な原因はひとつ、夜更かししていただけである。 だらだらと見ているのか見ていないのか分からないテレビ、続きが気になってなかなかやめられないゲーム、読み始まると止まらない読書(漫画)……。 夕飯を食べてから就寝までの自由時間はたくさんの誘惑が襲ってくる。 就寝時間をちょっとぐらい過ぎてもいいだろう、となった時点で睡眠不足が確定してしまう。 だが、今は早く寝るようにしている。 たまに寝床に入ってからスマホを取り出しググり始めたり、ユーチューブを見始まって止まらなくなったりするが、朝に起きる時間は変わらない。 やる気になって人生を有意義なものにするためには、まずは朝からだと思ったので眠いなんて言っていられない。 それに、とてもじゃないが寝坊助と有意義な人生に互換性はないと感じた、というのもある。 そして、早起きできるようになり、数々のメリットを感じながら良かったと思ったこともたくさんではないがあるにはある。 朝日が綺麗 朝日を見ると、世の中ってこんなにも美しかった

「どうでもいい」という言葉は嫌い

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スポンサーリンク 世の中には「どうでもいい」という究極の言葉がある。 似たような言葉に「どっちでもいい」や「何でもいい」という言葉もある。 これらは相手に選択をしてもいいという権利を与えているにもかかわらず、選択自体を否定してしまっているときに発せられるどうしようもない言葉である。 要は自分には関係が無い、もしくは選択するのがめんどくさい、などのことを伝えたいためなのだが……。 自分でもたまに使う時があるが、他人から言われると腹が立ってしまう、ということは自分が使っているときは相手も腹を立てているのかもしれない。 なので、これらは人間関係を悪化させる要因のひとつになる可能性があるので、この言葉を発するときは注意が必要だと思った。 それでは、これらの言葉を他人から言われて個人的に腹が立った順番を並べてみる。 「どっちでもいい」 腹が立つレベル:💢(怒りレベル1) 二択なので相手からすると、どちらも同等の価値があるかもしれないし、どちらもまったく価値がなくて判断できない、もしくは判断するのがめんどくさくて、どちらかに決めてもらいたい、というのもあるかもしれない。 どちらかに決めてもらいたいようだったら、しょうがないので選んであげる。 ムッとくるけど選んであげるのが重要。 後から違う方が良かったとか言われるとさらにムッとくるけどそんな時は「どっちだって同じだから」と言ってやんわりとカウンターを当てる。 「何でもいい」 腹が立つレベル:💢💢💢(怒りレベル3) 何を食べるか聞いたときに返ってきそうな言葉。 けっこう投げやりな返答なので聞いたほうは腹が立つと思う。 これもこちらに選択して決定する権利を与えられていると大目にみるしかない。 しかし、よくあるパターンだと「何でもいい」と言ったにもかかわらず、後になってから出された食べ物じゃないものが食べたかった、というとんでもない人間も世の中にはいる。 ムカッとしながら「じゃあ最初から言えばいいのに」とカウンターを当てると人間関係が悪くなってしまうので注意が必要。 我慢できそうでできないレベル。 「どうでもいい」 腹が立つレベル:💢💢💢💢💢

食肉加工工場で働いていた時に感じていた不満

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スポンサーリンク 食べるということは人間にとって生きていくためになくてはならない大切な事柄のひとつ。 なので食べ物に関係する仕事は世の中にはたくさんある。 その中で自分は食肉加工工場というところで働いていたことがある。 食肉加工工場とは牛肉、豚肉、鶏肉を原料とし、加工して商品にする工場である。 おもにハムやソーセージ、味付き肉、単にスライスしてパック詰めするだけのものなど、たくさんの商品を精造していた。 そこで経験したことや感じた事などを、これから食肉加工工場で働こうと興味を持っている人に知って欲しいと思った事柄をまとめてみた。 勤める会社の規模によって違いはあると思うが、たぶん、不満を持つところはだいたい同じだと思う。 もしかして不満ばかりだったのかもしれない……。 着替えるのが面倒 当たり前だが工場に入る前には会社規定の作業着に着替えなければならない。 上下の作業着に始まり、頭から肩まで長い帽子、毛髪混入防止ネット、マスク、長靴、手袋などなど、あっ、あとエプロンもだった。 そしてアクセサリーなどの小さいものはロッカーに置いていく、異物混入を防ぐために工場内には持ち込めないのである。 着替えるのが習慣化すれば苦にならないが、めんどくさいと感じるときもある。 商品単価が安いということは仕事が忙しいということ 作業は単純なことの繰り返しだが、とにかく忙しい。 早いスピードで動く機械を任されるとついていくのが精一杯。 ま、何でも慣れが必要だが、手作業も忙しかったけど機械も忙しかった。 何もかもが忙しかった。 今思うと、もっと大きな会社で機械による自動化が進んでいて役割分担がハッキリしていれば、そんなに忙しくないのかもしれない。 やっぱり会社は大手の方が楽なのかなぁ~。 危険がいっぱい 食肉の原料を加工するということは、切ったり、熱を加えたり、挽いたりするする作業がある。 包丁だったり、スライサーという原料肉を均一の厚さに切る機械だったり、チョッパーという原料肉を挽く機械だったり、原料肉を茹でる窯だったり、工場内には危険な道具や機械がたくさんある。 作業中もだが機械の洗浄などで気を抜くと簡単に怪我をしてしまうので注意が必要。

自分が存在しているという不思議

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これまでの人生の中で、自分は不思議な体験をしたことがあったのかを思い返してみると……そういえば、自分はこれまでにこれといった不思議な出来事に遭遇したことが無い。 例えば、買い物に行って目当ての物を買ったつもりが、家について確認したら違うものを買ってしまっていた……よくあることだが、それは不思議でも何でもなく、単なる誤解か勘違いである。 じゃあ、どんな事柄が不思議な体験なんだろうか?……。 簡単に言うと現実では起こりえないこと、科学的に説明が難しいこと、だと思う。 現実ではあり得ないこととは、身近なところでいくと死んだ人間が生き返るとか、時間が逆に進むとか、燃えたものが直ぐに元通りになるとか、数え上げたらキリがないけど、実際にそんなものはいちども見たこともないし、体験したこともない。 なので、そんな不思議なことはこの世には存在しない、と判断するしかない。 いくら誰かが不思議なものを見たとか、不思議な体験をしたと言っても自分はその誰かじゃないから、信じろというほうが難しい。 次に、いろんなメディアでよく見たり聞いたりする不思議な話や、不思議な写真や映像、これらのことで「いる、いない」や「ある、ない」の議論を見かけるが……。 そういうのをメディアで見たり聞いたりするのは面白い、というか大好きなのだが、実際に見たり体験したことがないので現実には存在しないもの、と判断せざるを得ない。 これらの事柄がいつまでたっても話のネタになるのは「いる」「ある」を証明することではなく、「いない」「ない」を証明できないからである。 見える人間には見えるとか、周波数が合わなければ見えないとか、次元が違うからとか言われたって、どうしようもないことには変わりない。 だから「いる」「ある」を証明してすべての人間が認識できなければ永遠に「いるかもしれない」「あるかもしれない」という状態から抜け出せない。 そんな解明もされてない物事を「信じる」とか「信じない」なんてのはどっちでもいい話である。 単なるエンターテイメントとして楽しむ、それだけで十分である。 本当に不思議なことがあるとすれば、自分自身が今、この世に存在しているということである。 それも、自分が生きている間の限られた時間しか自分の存在を認識で

みゃんこを失って感じたペットロスで苦しむ本当の理由

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19年間一緒に過ごしたみゃんこを失い、心にポッカリとみゃんこの形をした穴が空いて重度のペットロス状態になってしまった……。 以前に飼っていたペットを亡くしたときにも、可哀想だと感じたり、もっと貢献すればよかったと後悔したことはあった。 なので、その状態のことがペットロスの意味だと思っていたが、みゃんこのときはそんなもんじゃなく、もっと大事なものをなくしたような感じがした……。 そして、みゃんこを失ってみて初めて、ペットロスの本当の意味がだんだん分かってきた。 みゃんこが亡くなってから、可哀想に感じたりとか、もっと美味しいものを食べさせればよかったとか、もっと構ってやればよかったとか、もっとああしてあげればこうしてあげればよかったと次から次へと頭の中に後悔が浮かんできた。 その後悔は今までに亡くしたペットと同じ感じだったが、なぜか心の奥底からこみ上げてくるものがあり、急に涙があふれ出して止まらなくなる。 なぜ、いつまでたっても心の穴が埋まらないのか、長生きしたので一緒に過ごした時間が長かったから?……それとも、心のよりどころとして依存していたものを失ったから?……それもあるかもしれない。 しかし、もっと何か大切なことを忘れているような気がしていたので、みゃんこが我が家に向かい入れてから晩年になるまでのエピソードを思い返してみた。 そういえば、みゃんこを向かい入れてから何年後かに自分の母親が亡くなった。 みゃんこにとっては、いつも家にいてエサをあたえてくれていた人間が急にいなくなったことで不思議に感じていたと思う。 それと、みゃんこが亡くなる何年か前に15年生きた犬が亡くなった。 いっしょに触れ合う仲でもなかったが、犬の散歩についてくるときがあり特に警戒して近づかないような仲でもなかった。 いつも犬小屋にいた犬が急にいなくなったときも不思議に感じていたと思う。 そうやって思い返していたときに気づいた……。 感じ方は違うかもしれないが、長い間いろんなことをみゃんこと一緒に共有していたということに……。 その共有していた存在がいなくなり、この先、いっしょに共有できなくなったから……。 その現実を突きつけられ、また涙を流す……。 本当のペッ

現実の中での悩みや不安と向き合う人生

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子供の頃、今では取るに足らないようなことで悩んだり不安になっていた。 当時は、大人になればそんな悩みや不安からは解放されるものだと思っていた。 なぜそう思っていたのかというと、子供目線では、親や他の大人たちが悩みや不安を抱えているようには見えなかったからである。 だから早く大人になって悩みや不安から解放されたい、そう願っていた。 しかし、成長するにつれて、それは幻想であることに気づかされる。 大人になっても悩みや不安が尽きることはなかったからである。 自分の人生には淡い期待を抱いていたが、現実は違っていた。 以前の悩みや不安が解決したこともあったが、新たな悩みや不安が次々にやって来るのが現実だった。 特に大人になってからの悩みや不安こそが、人生における本物の深刻さを伴うものだった。 人間関係、お金、病気、家族、老後、死など……これらの問題は一瞬でも気を許すと、心が押しつぶされそうになってしまう。 生きている限り、人間は不安や悩みからは逃れられないということを、大人になって初めて痛感させられた。 時には、悩みや不安を引き起こす欲望を手放すことができれば、もっと楽になれるのではと考えたこともあったが、欲望を手放すのは簡単ではない。 結局、悩みや不安とは一生共存していくしかないということを、無理してでも理解するしかないのだと気づかされた。 たとえ何かのメディアで解決法が提示されていても、解決できる人間は少数派であり、大多数の人間は解決できないまま一生を終えるのが現実である。 解決できない多くの人間にとっては、結局は諦めるしかなく、それが納得できないと感じることも多々あると思う。 人生に後悔が残ることもあり、死の瞬間まで苦しむこともあるかもしれない、それでも、その現実を受け入れるしかない。 人生にはやる気を失くす瞬間が幾度もあるかもしれないが、生きている以上は仕方がないことである。 悩みや不安に対処するためには、少しでも改善目標を立て、少しづつ達成していくことが重要である。 僅かでもいいので悩みや不安の割合を減らして誤魔化していくしかない。 自分を誤魔化せる人間こそ、幸福な人生を送れるのかもしれない。 悩みや不安からは完全に逃れることは難しいかもしれないが、上手く付き合っていけるようにするのも人生の目的のひとつような気もする。 もしかすると人間が生

共感とアドバイスの狭間

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心というものは、人間ひとりひとりに唯一無二のものとして存在し、それぞれの内面は独自の感覚や感情の集まりである。 それぞれの人間の心の状態は、その人間自身にしか完全には理解できず、他人の心の状態を推し量ることは、表情や行動から判断する以外にない。 他人の心の状態を想像する際には、自分がこれまでに経験した類似の感情や状況を基に「こんな感じだろう」と推測するしかないと思う。 他人が本当はどのように感じているのか分からないにもかかわらず、「共感」という言葉が世の中にはある。 それでも、双方が納得できるのであれば素晴らしい言葉だと思う。 しかし、問題は共感した上でアドバイスをする人間である。 「気持ちは分かるが……」と切り出して改善策を提案することがある。 例えば、アドバイスをする人間が過去に受けた心のダメージが30%程度であった場合、アドバイスを受ける人間の心のダメージが70%であれば、その改善策は役に立たないと思う。 ダメージの度合いが倍以上も違うから……。 さらに、アドバイスを聞いた人間がその改善策を試しても役に立たなかった場合、アドバイスをした本人が「それぐらいのことで……」と感じることがあり、これが更に問題を深刻化させてしまう。 多くの人間は、同じ様な体験をした人間同士は同じ様な心の状態になると勘違いしている。 しかし、性格や受け取り方、心の容量や耐性は人それぞれ異なる。 そのため、分かったふりをしてアドバイスをすることは、しばしば相手を見下す行為に等しくなる……要はマウントを取っているということである。 だから、こうすればいいとか、ああすればいいとか、役にも立たないアドバイスを垂れ流す。 したがって、本当に大切なのは、アドバイスをすることではなく、共感し、事実をありのままに受け入れてくれる(傾聴してくれる)人間との関係を築くことである。 そういう人間との時間こそ、有意義なものであり、価値のある人間関係を構築するための基盤となる。 頼みもしないのに役に立たないアドバイスをしつこくしてくる人間とは、愚痴の対策と同じように距離を取るしかないと思う。 そうやって人間関係の問題を少しずつ減らしていくことが、人生にとって大切な要素であること

お金って何のためにあるんだろう

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スポンサーリンク 世の中にはお金というものが当たり前のようにあるけど、いったい何のために存在しているんだろう、と思う時がある。 そのお金の一部は人間の社会生活を豊かにするために税金という形で徴収され、みんなの生活のために役立っている。 だけど、恩恵を受けたことがある人間以外は、そうは感じていないと思う……。 それ以外で、人間ひとりひとりからみたお金というものはいったい何のためにあるんだろう……。 たぶん、自分の能力では、手に入れることができないものをお金を払って手に入れたり、できないことをお金を払って代わりにやってもらったりすること、だと思うんだけど……。 なんか、それだけじゃないような気もする。 もっと、人間の欲が根底にあるような気がするので探してみた。 承認欲求を満たすため 比較対象にあたる他人よりもいいものを買って「そんな高価なものを買えるあなたは凄い」と思ってもらうため。 でも、実際は妬まれるだけなので人間関係は悪くなる。 欲を満たすため 趣味や好きなものなど、自らの欲を満たすものを買うため。 自己満足で終わるので他人からどう思われても関係ない。 安心を買うため 将来に何かあったときの不安を軽減するために保険に入る。 保険にはたくさんの種類があるので、掛けた保険の数だけ将来に対しての安心を買うことができる。 人生を賭けるため お金を賭けてお金を増やす、一発逆転で人生を変えることもできるが、賭けるのがお金なのでリスクが大きい。 さらにまぐれで一発当ててしまうと気持ちが大きくなって散財してしまうらしい。 そして、お金がどんどん無くなっていくのに耐えきれずに、またお金を賭けてしまい元手がなくなると借金までしてしまうという話もある。 お金を使って人生を賭けてしまうと、失敗したときにお金以外の大切なものまで失ってしまうので注意が必要。 暇を潰すため 情報収集も兼ねるが各メディアで暇を潰すための媒体を買ったり通信料を払うため。 生活するため 電気・ガス・水道など。 その他に生活に必要だとされるものを手に入れるため。 その他の部分での水準を上げていくと生活が豊かになったと感じられる。 しかし、上げた水準は下げづらい、な

自分の物差しで他人を測ってはいけない

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物差しとは定規のことを指すが、ここで言う物差しとは人間ひとりひとりの価値観のことを指している。 人間ひとりひとりの物差しは違うはずなのに、なぜか、自分の物差しで他人を測ってしまっているし、他人の物差しで自分が測られているときもある。 都合良く、自分が思っているように相手が思っている、自分が感じているように相手も感じている、自分が考えているように相手も考えている、と思い込んでしまっている。 逆に他人がそう思っているときもある……。 そして、人間関係がうまくいかないときってのは双方とも相手を自分の物差しで測ってしまっているから、というのもあると思う。 たとえば、同じ会社で仕事も給料も同じでも、やりがいを感じて楽しく仕事をしている人間と愚痴ばかり言ってつまらなく仕事をしている人間がいたとする。 片方はこんなに楽しい仕事なのになんで愚痴ばかり言ってるんだと思うし、片方はこんなつまらない仕事になんでやりがいなんて感じてんだと思っているかもしれない。 どちらも自らの物差しが正解だと思っているので職場の人間関係はおのずと悪化する。 どこの職場でもよくある光景だけど……。 双方とも相手がどんな物差しなのかを理解するようにすれば、人間関係はおのずと良好になるのに、職場ではチョット難しい。 なので、なるべく自分と他人の物差しは違うんだ、と意識するようにはしている。 自分が理解できる物差しの持ち主とは良好な人間関係を築き、自分が理解できない物差しの持ち主とは距離をとる。 理解できそうもないと感じたら無理して理解しようとしない、疲弊するだけだから。 そして、否定もしてはいけない、物差し=価値観を否定してしまうと、その人間そのものを否定してしまうことに繋がってしまう。 人間関係はもちろん最悪になってしまう。 なので、そういう人間も世の中にはいる、程度でいいと思う。 本気になって批判したとしても何がどうなるわけでもない。 そうやってめんどくさい人間関係の負荷を減らしていく。 そうすれば人間関係の悩みも少しは減少するかもしれない……。 イラスト acworks 投稿:2022.2.15 火曜日

時間は無情にも過ぎていく

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スポンサーリンク 自らに与えられた時間はこの世に生まれた時から始まり、死ぬまで続く。 子供の頃はあんなに長く感じたのに、大人になるとあっという間に時間は過ぎていく。 それは、年を重ねるごとに早く感じてしまう。 楽しいことは一瞬で過ぎ去ってしまい、嫌なことは一瞬でやって来る。 と思ったら、それすらもいつの間にか過ぎ去って行ってしまう。 その時間というものは何なのか、ということを考えていた時期もあったが、それこそ時間の無駄だった。 何がどうなったとしても時間というものは無情にも過ぎ去っていくもの、人間ごときの力ではどうすることもできない。 もし、タイムマシンがあったとしたら、未来に行っても過去に行ってもたぶん、自分の欲を満たすためだけに使うと思う。 未来に行っては未来の情報を手に入れて、現在からの未来を自分の都合のいいように変えていく。 過去に行っては現在までの情報を過去の自分に教えて、過去から現在までを自分の都合のいいように変えていく。 思い通りの人生を手に入れることができそうだが、人間は満足できない生き物なので、もっと良くしようと考えてしまう。 そしてタイムマシンに乗りっぱなしで、それ自体が人生の目的になってしまう。 ある日気づくと思う、タイムマシンを使って自分の人生を変えてきただけで、自分が生まれた時から携わってきた自身の時間は何も変わらなかったと……。 いつまでも満足できなくて自らの残り時間が少なくなったとき、自分の人生はなんだったのか、となってしまうかもしれない。 でも、タイムマシンなんかないから潔く諦めて現状に満足できるように心掛ける。 そして、過去に悔やんでいる時間があるなら、その時間を限りある未来が有意義なものになることだけを考えるために使う。 過去なんて二度とやってこないのだから……。 時間は無情だということを心得て、これからの人生をやる気を出して大切に生きていくほうがいいと思う。 ……ていうかそれしかない。 スポンサーリンク イラスト イラストスター 投稿 2022.2.5 土曜日