投稿

2022の投稿を表示しています

元気が出た瞬間を大切にする

イメージ
元気があるということは、人生にとって非常に有益なことだと思う。 元気が出たと感じた瞬間は、まるで心に光が差し込むような感覚だった。 疲れやストレスで沈んでいた気持ちが、ふとしたきっかけで軽くなり、前向きな気持ちに切り替わっていく。 友人との何気ない会話や、美しい景色に触れた瞬間、小さな成功体験があったときなど、さまざまな場面で元気が湧いてくる。 そのたびに、自分にはまだまだやれる力があるんだって実感し、再び頑張ろうという気持ちが強まっていく。 このように、元気が出る瞬間は意外なところに隠れている。 大切なのは、どんなに忙しい日常の中でも、自分をリセットする時間を大事にすること。 そして、ポジティブなエネルギーをもらえるような瞬間を見逃さないようにすること。 それが、明日への活力となり、さらに充実した日々を送るための原動力になる。 リセットする時間を設ける 日々の生活や仕事で蓄積した疲れやストレスを解消し、心身をリフレッシュさせるための時間を設ける。 現代社会では、忙しさに追われてしまいがちだが、自分のペースを取り戻し、リフレッシュするためには、このリセットする時間が非常に重要である。 リセットする時間の具体的な例として、次のようなものが挙げられる。 休息や睡眠 十分な休息や質の良い睡眠をとることて、体力と精神力を回復させる。 趣味の時間 自分が好きなことに没頭する時間は、ストレスを軽減し、心を豊かにする。 運動や散歩 体を動かすことで気分転換を図り、リフレッシュ効果を得ることができる。 瞑想や呼吸法 短い時間でも、心を落ち着ける瞑想や呼吸法を行うことで、心のバランスを整えることができる。 自然に触れる 公園や自然の中で過ごす時間は心を癒し、リフレッシュするのには最適である。 友人や家族との時間 大切な人たちとの楽しい時間を過ごすことで、心が安らぎ、エネルギーが湧いてくる これらの時間を意識的に持つことで、忙しさの中でも自分を見失わず、元気を取り戻すことができる。 投稿:2022.12.25 日曜日

人生最後の日を思い描くことで見えるもの

イメージ
ふと考えたことがある……。 今日が、自分の人生の最後の日だと何者かに告げられた時に、いったいどんなことを思うんだろうと……。 ほとんどの人間は自らの人生を後悔するらしいけど、自分はいったいどんなことを後悔するんだろう……。 たぶん、誰もが思うようなことだと思う。 やりたいと思っていたけどやれなかったこと、もしくは、いつかやめようと思っていたけどやめられなかったこと、だと思う。 ああしておけばとかこうしておけばとか、あんなことしなければとかこんなことしなければとか、いつもと変わらないことだと思う。 その日が最後なので考えられるのは過去のことだけなのに、もしかしたら現状をかえられたのではないのだろうかとか、一生懸命考えてしまうと思う。 もう後が無いからどうしようもないのに……。 そしてその日もいつもと同じよに、あっという間に時間は過ぎてしまうだろう……。 常日頃から人生最後の日に後悔しないようにいくら頑張っていたとしても、人間には欲があるので後悔しないようにというのは不可能な気もする。 なので、人生の最後の日だって、いつものようにしていればいずれ時間が来てしまう。 人間の人生なんてそんなものだと思う。 そんな後悔とかよりももっと苦しいのは、絶望を感じることだと思う。 もし自分のこれまでの人生が、人間関係が良好で、有り余るお金があって、やりたいことが何でもできて、毎日幸福を感じながら生きてきたとしたら……。 それがもう一日限りで失われるとしたら……。 自分だったらその幸福を失う恐怖に耐えられない。 それが絶望というこの世で最も不幸なことだと思う。 だったら、なんだかんだ後悔したほうがよっぽどましなような気もする。 でも、もしかしたら、幸福な人生を歩んできた人間の中には、人生最後の日だと告げられた後でも、この世に生を受けたことに感謝しながら終焉を迎える人間もいるかもしれない。 自分もいつしか、そういう人間になりたいと心から願っている。 明日は我が身をつねに意識する いつか必ず自分の命が尽きるときがくる、生命体として生まれてきた以上、絶対に避けては通れない……。 それは、もしかしたら明日かもしれない。 そんなふうに思うようになったのは何年前だっ...

心配事は9割起こる~最悪のシナリオを想定して備える

イメージ
心配事の9割は起こらないって聞いたことがあるけど、起こる可能性が1割でもあると考えると、おちおち寝てもいられないんじゃないの?。 👀「えっ、そりゃあそうだけど……でも、そのぐらいの割合でしか心配事は起きないから過度な心配は必要ないってことじゃないの?」 でも、実際には心配事が現実になる可能性がゼロじゃないんだから無視はできないよね。 👀「そうかもしれないけど……」 むしろ、心配事は9割起こると考え、最悪のシナリオに備えることが必要なんじゃないのかな。 👀「確かにそうだね、転ばぬ先の杖はあるに越したことはないからね」 徹底的な準備の必要性 最悪のシナリオを想定し、具体的な対策を立てることで、予期しない出来事にも冷静に対応できるんじゃないかな。 👀「そうだね、例えば自然災害や健康問題、経済的不安など、あらゆるリスクに対して事前に準備しておくってことだね」 そして詳細な計画を立て、可能性のあるリスクをリストアップし、それぞれに対する対策を講じることで、心の平穏を保つことができると思うんだ。 👀「心の平穏はとっても大事なことだからね」 心理的な安心感の向上 最悪のシナリオに備えることで、実際にそれが起こらなかった場合に大きな安心感を得られると思うんだ。 👀「なるほど、常に最悪の事態を想定して準備をしておけば、心配が現実にならなかった時の喜びや安堵感はひとしおってことだね」 この安心感が、日常のストレスを軽減し、精神的な安定もたらしてくれると思うよ。 👀「ストレス軽減にまで影響を及ぼすなんて凄いね」 現実的な視点と柔軟な対応 心配事が現実になる可能性を考慮し、事実に基づいた判断をすることが重要だと思うんだけど。 👀「それには、情報収集が欠かせないね、現実的なリスクとその対策を理解することで冷静に対処できると思うよ、あとは、計画通りにいかない場合、柔軟に準備しておくことが大切だよ」 柔軟に準備するってどういうこと?。 👀「計画や対策をひとつに固定せず、状況に応じて変更や調整ができるようにすることだよ」 あっ、それってプランAとかプランBとかってやつだね。 👀「未来は一本道じゃないから、いろんな可能性を考慮しないといけないんだね」 過度の...

耳掃除の快感とリスク~適度なケアの重要性

イメージ
耳かきは多くの人にとって気持ちの良い行為だと思う。 耳の中を掃除すると、耳垢が取り除かれて清潔になり、なんとなく聞こえが良くなった感じもするので、気分も良くなり、やる気も湧いてくる。 ちょっとした心のデトックスにもなると思う。 以前は耳かき専用の道具を使っていたが、現在は使用後にそのまま捨てられる使い捨ての綿棒を使用している。 これまで使用していた綿棒は白い色だったので、いまいち耳垢の取れ具合が分かりにくかった。 そこで、使い切ったタイミングで、耳垢が見えやすくなるように黒い色の綿棒に変更し、さらに根こそぎ取れると噂されるスパイラル状のめん棒を使ってみることにした。 【黒い色⇨結果が見えやすい】 【スパイラル状⇨根こそぎ取れる】 この新しい綿棒のメリットに満足しつつ、完璧な耳掃除を目指してぐりぐりと耳垢を取り除いた。 そして、スッキリした。 ところが数日後、耳の中に何かが詰まっているような違和感を感じた。 あれだけ丹念に耳掃除をしたのに、まだ耳垢が残っていたのかと思いつつ、頭を横にして手のひらで耳をポンポンとしてみたら、なんと、出てきたのは「かさぶた」だった。 たぶん、スパイラル状の綿棒で耳のなかをぐりぐり掃除したので、皮膚が傷つき出血したと思われる。 綿棒だから大丈夫だと思っていたが、意外と耳の穴の中はデリケートだった。 いや、ぐりぐりしすぎたのかもしれない……。 炎症とかにならなくて良かったと思いつつ、今後はもっとソフトに耳掃除をしようと心に誓った……。 後から知ったことなのだが、耳の中は非常にデリケートで、過度な掃除は逆効果になることもあるらしい……身をもって体験したのでその通りだと思った。 そして、耳垢は耳の自然な防御機能であり、耳の構造上、自然と排出されることが多いとされている。 なので、耳掃除は不要らしいが、やっぱりムズムズすると耳垢を取りたくなってしまう。 耳は人間にとってかなり重要な器官なので、細心の注意を払って耳のケアをしていかなければならないと感じた。 なので、耳掃除はほどほどに……。 2022.11.20 日曜日

【他人の評価】白い紙に黒い点と黒い紙に白い点

イメージ
紙の色に例えているのは自分から見た他人に対しての大雑把な評価である。 白い紙とは自分にとっていい人間を指し、黒い紙とは自分にとって嫌な人間のことを指す。 自分にとっていい人間にたまたま嫌なことをされるのが白い紙に黒い点が付くことで、自分にとって嫌な人間にたまたまいいことをされることを黒い紙に白い点が付くことである。 いい人間に嫌なことをされたり、嫌な人間にいいことをされたりした自分の心の状態を紙の色で表そうとしてるんだけど……。 実際には白い紙に黒い点があったり黒い紙に白い点があったりしても、そんなには気にならないと思う。 心の状態も同じで、いいと思っている人間に嫌なことをされたり、嫌だと思っている人間にいいことをされたりしても、人間にはいろんな側面があるのでそういうこともあるだろう、で済むと思う。 しかし、人間の心はそう単純じゃなかった。 人間の心はネガティブな状態が基本らしいので、いいと思っている人間から嫌なことをされたりして白い紙に黒い点が付いてしまうと時間の経過とともに黒い点が大きくなって不信感を抱いてしまったり、嫌な人間にいいことをされたりして黒い紙に白い点が付いても何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまい白い点はいずれ消えてしまう。 なぜこんなめんどくさい状態になってしまうのかを考えてみたら、原因は意識的に他人にレッテル貼っててしまっていたからである。 ただでさえめんどくさい人間関係をさらにめんどくさくしているだけだった。 こうなったら自分以外の人間は白と黒が混ざった灰色なんだと思い込ませることにした。 あらゆる人間は自分にとっていい人間かもしれないし嫌な人間かもしれない。 言動が信用できる人間かもしれないし信用できない人間かもしれない。 困ったときに助けてくれるかもしれないし見殺しにされるかもしれない。 勝手に自分で張ってしまった「あの人間はこういう人間だ」というレッテルのせいで心を煩わせているより、あらゆる人間に対しての紙の色の例えは灰色にする。 灰色=グレーというとなんか曖昧な感じがするけど人間はそんなもんだと思う。 人間関係をもっと楽にするためには他人に対してあまり関心を持たなくしてフラットな心の状態を維持することが重要だと思う。...

過去を後悔するより潔く諦めてみる

イメージ
「後悔先に立たず」という諺がある。 この言葉は、起きてしまった出来事を後から悔やんでもどうしようもないので、慎重に考えてから物事に取りかかった方が良い、ということを促す教訓を含んでいる。 この諺を考案した人間はもしかしたら、避けられない過ちを犯してしまい、その後悔から逃れられない人生を送っていたのかもしれない。 後悔しているときの感情を思い出すと……とても嫌な感じがする。 かけがえのないものを失ったりすると寂しく感じたり、取り返しのつかないことをやらかすと悔しく感じたり、何もしてなくて状況が悪化したりすると虚しく感じたり、あの時ああしていればとかこうしていればとかっていろいろ考えてしまい、挙句の果てに反芻が始まって夜も眠れない時もある。 不可能だと分かっていても、なんとか過去に戻ってやり直せないのか、なんてことまで考えてしまう。 どうしようもないのに……。 そうやって考えていたときに、ひとつだけ分かったことがある。 どうしようもないことはどうすることもできないので諦めるしかないってことが……。 もしかしたらなんとかなったんじゃないか、なんていつまでもくよくよ思ってしまうのも人間の欲がはたらいているせいなのかもしれないけど……。 欲を払拭して過去を変えることなんてできないとキッパリと割り切ることができれば、もしかしたら人生をもっと楽に送れるのかもしれない……。 そして、過去を振り返って嫌な気分になるより未来に希望を持って良い気分になっていたほうがやる気も増すような気もする。 もし、今この瞬間が楽しくて嬉しくてワクワクしていて将来が希望に満ち溢れていたら、仮に過去の失敗やどうすることもできなかったことを思い出してしまったとしても後悔するという感情は最小限に抑えられるかもしれない。 過去の出来事は捉え方によって変えることができると聞いたことがある、しかし、その時の心の状態で変わってしまうので期待できない。 そんなことより、人間の人生はかけがえのない瞬間の連続でできている、次の瞬間は未来からしかやってこない。 戻ってこない過去に時間を使うより、やって来るかもしれない未来に、希望を持って想い描いていたほうがいいと思う。 イラスト yo...

気分を良くして前向きに生きる

イメージ
毎日変化するもののひとつに、心の状態、つまり気分がある。 この気分は、体調や環境、過去や未来のことを考えている時、さらには目の前にいる人間の言動ひとつでも変化してしまう……このように非常に厄介なものである。 この気分の厄介なところは、仮に同じような物事を考えたり思い出したりしたとしても、その時の気分の良し悪しで、その物事の捉え方が異なってしまうことである。 気分が良ければプラス思考になり、過去の失敗や嫌な出来事を糧にして未来に希望を託そうとする。 しかし、気分が悪ければマイナス思考になり、過去の失敗や嫌な出来事に縛られ未来を不安で包んでしまう。 気分が良ければポジティブになり、やる気が湧いていろんなことに挑戦したくなるが、気分が悪ければネガティブになり、やる気を失い、行動が制限されてしまう。 これは日常生活にも支障をきたしてしまうし、なによりもやる気が喪失するのは大問題である。 せっかくの人生なんだから、良い気分の状態を毎日持続して、有意義な時間を過ごしていきたいと思う。 しかし、この気分の厄介なところは自分でコントロールするのが難しいことである……でも、意識して変えていくことはできるはずである。 それにはまず、自分の気分は自分でなんとかするように意識する、なるべく毎日の気分をフラットな状態か、あるいは良い状態に保つよう心がける。 体調が原因で気分がすぐれないと思うなら規則正しい生活を心がけたり、体調管理を意識して生活する。 早寝早起きで充分な睡眠を取ったり、暴飲暴食を控えるなどして体に負荷をかけないことを心がける。 環境が原因で気分がすぐれないと思うなら環境を整えたり、変えたりする。 職場なら気分を害する人間とは距離を取る、もしくは転職するなどを考慮する。 人間関係が原因で心を病んでしまうと気分をコントロールするのはかなり難しくなってしまう。 不安や悩みが原因で気分がすぐれないと思うなら本を読んで先人の知恵を借りたり、信頼できる人間に相談したりする。 そうやって上手く気分をコントロールしてプラス思考を維持できれば、やる気がでて有意義な人生を送れる...

幸せの本質~生命維持と満足感の関係

イメージ
幸せの感じ方は人それぞれ違うと思うが、その根底には、生命を維持するために必要な基本的欲求があると思う。 人間が幸福を感じる瞬間の多くは、実はこの基本的欲求が満たされたときに訪れるのである。 例えば、人間の体はその大部分が水分で構成されており、水分が不足すると、喉の渇きとして体から信号が送られる。 この状態で水を飲むと、ただその行為だけで深い幸福感を得られる。 これは、我々の体が生命維持に直結するニーズに敏感に反応し、そのニーズが満たされたときに強い安堵感と幸福感を感じるようにできているからである。 食事も同様に、我々にとって大きな幸せをもたらす要素である。 日々の食事ではそのありがたみを感じることが少ないかもしれないが、空腹時や長い間食べられなかった後に食事をとると、その一口がとてつもない満足感をもたらす。 これは、体がエネルギーを必要とし、その供給が不足することで危機感を覚えるためである。 この危機が解消される瞬間、我々は「生きている」という実感と共に、深い幸福感を得る。 さらに、体温調節も幸福感に大きく影響する。 暑い日に涼しい場所に移動した時や、寒い日に温かい場所に入った時、我々は強い安堵感と共に幸福感を感じる。 これもまた、生命を維持するために体が快適な状態を保つことが重要であり、そのバランスが取れた時に感じる幸福感である。 こうして考えると、我々が日常生活で感じる幸福の多くは、生命維持のために必要な基本的欲求が満たされた時に生じるものであり、これが幸福の本質だと思う。 しかし、これらの基本的欲求が満たされると、我々は次第にその状態を当たり前のものと感じ始め、さらなる欲求を求めてしまう。 何かしらの理由で手に入れた物や、何かを成し遂げた達成感、何かしらに束縛されない自由といった幸福感は、身体的な欲求を越えたものを手に入れることで幸福を感じることもあるが、こうした幸福感は一時的なものであり、時間が経つと覚めてしまうことが多いのも事実である。 ...

心の自由を求めて

イメージ
人生は「自由」という言葉でよく表現されるが、その自由は実際には簡単に得られるものではない。 例えば、自分の好きなことをして生きる自由があるように見えても、現実には経済的な制約や社会的な責任がつきまとうことが多い。 また、自由な選択をするためには、それに伴うリスクや責任を引き受ける覚悟が必要だ。 そのため、自由を手に入れるには努力や条件が求められることがほとんどだと言える。 自由の現実と制約 「人間は生まれながらにして自由である」という言葉を耳にしたことがあるかもしれないが、現実はそう簡単ではなく、我々は生まれた瞬間から様々な制約の中で生活している。 ある程度の自由はあるものの、それは一定の条件のもとで成り立っており、本当の意味での解放された自由を感じることは難しい。 例えば、鳥が籠の中で飛び回れる範囲が限られているように、我々の自由も社会や人間関係によって制限されている。 このような状況が、ストレス社会の原因にもなっているかもしれない。 いや、そうとしか思えない……。 人間関係と心の自由 特に人間関係は悩みの原因とされることが多い……ていうかほとんどなような気がする。 心の自由を求めるなら、まずは人間関係に目を向けることが重要だと思う。 社会全体の制約を変えるのは難しいかもしれないが、自分の心のあり方は自分の力で変えていけると思う。 自由を取り戻すためのステップ 1.解釈を変える 同じ状況でも見方を変えると、感じ方は変わることがある。 よく耳にするのが、コップの水が半分になったときに「もう半分しかない」と思うのか、それとも「まだ半分もある」と思うのか、大したことがないように思えるが感じ方は雲泥の差がある。 ポジティブな捉え方をすることで、心に余裕が生まれると思う。 2.思い込みを外す 自分の固定観念を見直し、不要な思い込みを手放してみる。 これはかなり難しいが、そう思う自分をまずは疑ってみることから始める。 もしかしたら新しい視点が見えてくるかもしれない。 3.欲望を減らす 物欲や執着を少なくし、心の平穏を保つようにする。 物質的な欲望から解放されることで、内面的な自由を感じることができる。 積極的な生き方で心の自由を目指す 人生は自分次第であると思う。 現状に満足せず...

つついた先に見えたダンゴムシの真実

イメージ
ある日、除草作業の休憩中、ふと地面に目をやると、目の前にダンゴムシが現れた。 なぜか子供の頃のように、つついてみたくなってしまったのである。 さっそく小枝を拾ってダンゴムシを軽くつついてみると、やっぱりあの丸い形に丸まってしまった。 その時、ふと疑問が湧いた。 ダンゴムシって、幼虫みたいな姿だけど、これで成虫なんだろうか?、もしかしたら何かの昆虫の幼虫でこれからサナギになるんだろうか?、さらに、風の谷のナウシカの王蟲はダンゴムシがモデルなんだろうか?、などの思考が巡ってしまった。 ダンゴムシは「ムシ」と名前にあるけど、実はエビやカニなどの仲間で、昆虫ではないらしい……恥ずかしながらいままで虫だと思っていた……。 そういう経緯もあり、昆虫の成長を考えるように「成虫なのか?」とか「サナギ時代はあるのか?」といった疑問が浮かんでしまったのである。 そして、もっと詳細なことが知りたくなったので、スマホで調べることにした。 結果、ダンゴムシはエビやカニと同じ甲殻類で、昆虫のように変態することはなく、成虫になるためのサナギ時代も存在しない。 何回も脱皮を繰り返し、あの大きさになっている。 つまり、あの丸い形が成虫の姿、じゃなくて本来の姿なのだ。 さらに、王蟲のモデルについて調べてたところ、三葉虫やモスラなどが候補に挙がっていたが、ダンゴムシがモデルだという情報は見当たらなかった……結構似てるんだけどね……。 「ダンゴムシ」という名前についても、本当にそういう名前なのかを調べてみたが「オカダンゴムシ」という正式名称が出てきたので、本当にそういう名前だった。 王蟲に似ているのに「ダンゴムシ」と呼ばれるのは少し寂しいので「マイクロ王蟲」というあだ名を自分でつけることにした。 ちなみに、ダンゴムシに似ているけども、つついても丸くならない「ワラジムシ」という生き物もいるらしい。 そういえば、子供の頃にいくらつついても丸まらないダンゴムシがいて、勝手にやる気のないダンゴムシだと思っていたが、もしかしてあれがワラジムシだったかもしれない。 イラスト よーよー 投稿:2022.8.10 水曜日

返報性の原理を意識して人間関係を円滑にする

イメージ
人は何かをしてもらったり、物をもらったりすると、それに対して何かお返しをしたいと感じることがある。 これは「返報性の原理」と呼ばれる心理作用で、多くの人に共通する本能的な反応である。 しかし、この返報性の強さは、個人の性格や文化、状況によって異なる。 例えば、ある文化では返礼が非常に重要視されるのに対し、別の文化ではあまり重視されないこともある。 誰しも、返報性の原理を感じた経験はあると思う。 親切にされたり、物をもらったときに「何かお礼をしなくては」と思ったことがあるのではないのだろうか。 この原理は人間関係を良好にするために役立つが、返礼をするときは相手が本当に喜ぶかどうかを考えることが大切だと思う。 恩着せがましいお返しは逆効果になることがあるので、真心からの返礼であれば、人間関係はより良い方向に進むと思う。 ただし、この原理が全ての人間関係の問題を解決するわけではなく、コミュニケーションの質や価値観など、他の要素も関係性に大きく影響を与える。 返報性の原理を活かすには、まず自分から何かを与える姿勢が大切だと思う。 日常生活でさりげない親切や気配りを示すことで、相手は自然と「お返しをしたい」と思うようになるのでは……ないだろうか。 これは物質的なものに限らず、時間や感謝の言葉、共感といった非物質的なもにも当てはまる。 特に、相手の気持ちや状況に寄り添い、共感を示すことは、相手に「自分は理解されている」という安心感を与え、信頼関係の構築に貢献する。 しかし、返報性を意識しすぎると、見返りを期待しているように思われてしまうこともある。 見返りを求める気持ちが表に出ると、相手はその行為を取引や義務のように感じてしまうかもしれない。 なので、相手に何かを与える際には、自分自身の喜びを優先する姿勢が必要である。 見返りを期待しない親切は、相手に温かさを感じさせ、自然に「お返しをしたい」という気持ちを引き出してくれる。 また、他者の善意を素直に受け入れることも重要である。 相手が何かをしてくれたとき、遠慮して断るのではなく、感謝の気持ちを持って受け入れることで、相手は自分の行為が価値あるものだと感じる。 そして、その感謝の気持...

自転車の動きには細心の注意を払わなければならない

イメージ
比較的交通量の少ない住宅街を車で走行していた時の話。 この道路には車道よりちょっと高くなっている歩道が設けられている。 少し先の左前方の歩道に自転車が走行しているのを発見した。 自転車は路側帯ではなく歩道を走行していたので、こちらが別段注意していなくてもそのまま自転車の横を通り過ぎることができると考えていた。 しかし、この先にある交差点の左手前にあるコンビニに買い物に行く途中だったので、途中で追い抜いてもコンビニの駐車場に入る時、追い抜いた自転車が後ろから来るのを気にかけながら左折しなければならない。 それよりも自転車がコンビニの横を通り過ぎたのを確認してから左折したほうが良いと思ったので減速することした。 減速してからも自転車の動きを見ていたその時、なんと、自転車はちょっと高い歩道から右側に下りて車道に侵入、目の前を横切り反対側の歩道に行ってしまった……。 あぶなかった、もう少しで接触事故を起こすところだった。 驚いたのは、こちらが自転車を発見してから反対側の歩道に行くまでに、その自転車の運転者はいちども後ろを振り返らなかったことである。 いちども、後方確認をしなかったのである。 自分が自転車を運転していた場合、後ろから車が来るかもしれないので追突されないように後方確認をするのが当たり前だが、それが当たり前じゃない人間もいる。 あのまま減速しないで走行していたら間違いなく接触事故を起こしていたと思うと……。 そのときは事故んなくて運が良かったという安堵感よりも、後方確認もせずに車道に侵入し、ヒヤッとさせた自転車の運転者へ対しての怒りでいっぱいになりそうになったが、いつものようにすぐに頭を切り替え冷静になるように自分に言い聞かせた。 世の中ではこんな感じになった時、事故につながらなくて良かったと思うよりも、危険な行為をされた、という怒りのほうが優先されてしまって居ても立ってもいられなくなり煽り運転等に発展していくのかもしれない。 車の運転中にイラッとしたときは世の中にはこういう人間もいるんだ、と理解してその事柄を俯瞰してみるように心がけている。 あとは、自分の当たり前が必ずしも他人の当たり前じゃないことを意識するようにしている。 それと、他の自...

「羨ましい」という感情に心が振り回される

イメージ
どうして人間にはこんなにも多様な感情が存在するのだろうか?……この問いは日常的に直面する感情の変化の度に頭をよぎる。 過去を振り返るとき、未来を想像するとき、そして今この瞬間ですら、感情は何かしらの理由で移り変わる。 それ自体が時には煩わしく感じられることもある。 特に、他人への羨ましさを感じてしまうと、大切なやる気が削がれてしまうことが結構ある。 これは、他人との比較から発生する感情で、対象や状況によって変わる厄介なものだ。 ポジティブな心の状態なら他人と比較しても、自分は自分、他人は他人と割り切れる。 それに、羨ましい感情から憧れに発展すれば、いつしか自分もそうなってやるという向上心が芽生えてやる気が発生する可能性もある。 一方で、ネガティブな状態だと、羨ましさが嫉妬や怒り、憎しみに変わってしまうこともある。 仮に、自分が嫌いな人間と比較してしまい、相手のことを羨ましく感じてしまったとする、そして相手がそのことで優越感に浸っている可能性があると考えてしまうと、腹まで立ってくるようになる。 そして、同時に自分はその人間よりも劣っている、と感じて劣等感にも悩まされるようになる。 これだけでも心が苦しくなり疲れてしまう……。 だんだんとそんなことに捕われている自分自身にも腹が立ってくるし、もしその人間と同じような境遇に生まれていたら、同じような環境で育っていたら、同じように容姿が良かったら、同じように頭が良かったら、同じように運が良かったら、こんな思いはしなかったのに、と考え始めると途轍もなく虚しいという感情も湧き起こる……。 ただ、ネガティブな感情が長く続くと心まで蝕まれていくこともあるが、それだけではない。 ネガティブな感情も時には自己改善や問題解決のきっかけとなることもある。 たとえば、不安や嫉妬を感じたとき、それを原動力にして自分を成長させることができるかもしれない。 だからこそ、感情をそのまま受け入れ、時にはその力を借りて前に進むことも大切である。 比較も避けるだけでは解決しないことがある。 比較をうまく活用することで、自己の成長やモチベーションにつなげることもできる。 ただし、感情を無理に抑え込んだり、誤魔化そうと...

変わらない他人と変わるのが難しい自分

イメージ
人間関係を改善できるとかでよく言われているのが、他人は変えられないので自分を変える、というものがよくある。 確かに、何がどうであろうと他人を変えるのは難しいと思う。 特に他人の行動や考え方を根本的に変えるのは不可能に近いように感じる。 実際に経験したことがある事柄で、職場で毎日、腹が立つ行為を繰り返していた人間に強い口調で注意を促したことがある。 直後からしばらくの間は改善の兆しが見えたが、時間が経つにつれだんだんと元に戻っていってしまった……。 また同じことを言わなければならないのか、と考えただけで心が疲弊していってしまった。 どうしようもない部下をもった上司の気持ちが分かるような気がする……。 ただ、この経験を通じて分かったのは、確かに他人を変えるのは難しいけれども、それが絶対に無理というわけではないということだ。 時には、フィードバックやサポートが他人の行動を変えることもある。 しかし、それには強い信頼関係や適切なタイミングが必要だ。 そのときに、ふと思ったことがある。 自分が逆の立場で他人に指摘され、言われたことに腹が立っても自分なりに納得したのならば二度と同じ行為は繰り返さないと……。 しかし、それは自分がそう思っているからであり、他人も同じように思っているとはかぎらない。 それは、自分の価値観で他人を見ていたということ……。 自分はこんなときはこうするから他人も同じようにするだろうという甘い考えがあったからだ……。 結局、変えようとしたが変わらなかった人間に対して腹が立ち、幻滅し、そしてストレスにより心を疲弊させていったのだった。 このときに自分の価値観と他人の価値観は違うものであり、自分の価値観で他人を見てしまうと人間関係はおのずと悪化していくだけだ、ということが分かった。 ということもあり、他人を変えることは難しいという結論に達した。 ただ、それでもなお、他人に影響を与える可能性は完全に否定できない。 人は時に、信頼する人の言葉や行動を通じて変わることもある。 そして、人間関係の改善でよくいわれている「自分を変えていく」……これが人間関係改善の近道だと思っていたが、心のどこかでは他人の言動のせいで自分の心が疲弊しているのに、なぜ自分が変わらなければならな...

寝坊助が早起きできるようになって感じたメリット

イメージ
夜に寝床につくときにはいつも「朝なんて来なければいい」と思っていた。 特に日曜日の夜や連休最後の日の夜などは……。 仕事の日はギリギリまで寝て、休日は午後に起きるのが当たり前……最悪、夕方まで寝ていたこともある。 そんな人間が今は早起きしている、いったい何があったんだろう……自分のことなんだけどね……。 結論から言うと、早く寝る習慣をつけたことで早起きできるようになった……ただそれだけである。 しかし、長年染みついた習慣を変えることは容易ではなかった。 朝の忙しさに追われていた時期、忘れ物が多かったことを思い出す。 ハッキリ言うと寝坊助にはデメリットしかなかった。 車の鍵を忘れたり、お弁当を忘れて外で昼食をとったり、財布を忘れて通勤途中に必ず飲んでいた缶コーヒーも買えないこともあった。 その他にも何かしらの物を忘れたエピソードは数知れず、前の日にちゃんと準備しとけばいいと思うかもしれないが準備していても忘れるときは忘れるのが寝坊助である。 さらに休日になると、寝ていたいという誘惑に負けて目が覚めてもまた寝てしまう。 雨の日はさらに深い眠りにつく、あの二度寝の気持ちよさは最高だった。 こんなにも朝が苦手な原因はひとつ、夜更かししていただけである。 だらだらと見ているのか見ていないのか分からないテレビ、続きが気になってなかなかやめられないゲーム、読み始まると止まらない読書(漫画)……。 夕飯を食べてから就寝までの自由時間はたくさんの誘惑が襲ってくる。 就寝時間をちょっとぐらい過ぎてもいいだろう、となった時点で睡眠不足が確定してしまう。 だが、今は早く寝るようにしている。 たまに寝床に入ってからスマホを取り出しググり始めたり、ユーチューブを見始まって止まらなくなったりするが、朝に起きる時間は変わらない。 やる気になって人生を有意義なものにするためには、まずは朝からだと思ったので眠いなんて言っていられない。 それに、とてもじゃないが寝坊助と有意義な人生に互換性はないと感じた、というのもある。 そして、早起きできるようになり、数々のメリットを感じながら良かったと思ったこともたくさんではないがあるにはある。 朝日が綺麗 朝日を見ると、世...

「どうでもいい」という言葉が人間関係に与える影響とは?

イメージ
世の中には「どうでもいい」という究極の言葉がある。 似たような言葉に「どっちでもいい」や「何でもいい」という言葉もある。 これらは相手に選択をしてもいいという権利を与えているにもかかわらず、選択自体を否定してしまっているときに発せられるどうしようもない言葉である。 要は自分には関係が無い、もしくは選択するのがめんどくさい、などのことを伝えたいためなのだが……。 もちろん、これらの言葉が必ずしも悪いというわけではなく、時には相手への気遣いや優しさとして使われることもある。 しかし、そのニュアンスが伝わらない場合や誤解を生むこともある。 自分でもたまに使う時があるが、他人から言われると腹が立ってしまう、ということは自分が使っているときは相手も腹を立てているのかもしれない。 なので、これらは人間関係を悪化させる要因のひとつになる可能性があるので、この言葉を発するときは注意が必要だと思った。 それでは、これらの言葉を他人から言われて個人的に腹が立った順番を並べてみる。 「どっちでもいい」 腹が立つレベル:💢(怒りレベル1) 二択なので相手からすると、どちらも同等の価値があるかもしれないし、どちらもまったく価値がなくて判断できない、もしくは判断するのがめんどくさくて、どちらかに決めてもらいたい、というのもあるかもしれない。 こちらに選択の自由を与えてくれているとも取れるが、その意図が見えにくい場合は、少しイライラすることもある。 どちらかに決めてもらいたいようだったら、しょうがないので選んであげる。 ムッとくるけど選んであげるのが重要。 後から違う方が良かったとか言われるとさらにムッとくるけどそんな時は「どっちだって同じだから」と言ってやんわりとカウンターを当てる。 「何でもいい」 腹が立つレベル:💢💢💢(怒りレベル3) 何を食べるか聞いたときに返ってきそうな言葉。 けっこう投げやりな返答なので聞いたほうは腹が立つと思う。 これもこちらに選択して決定する権利を与えられていると大目にみるしかない。 しかし、よくあるパターンだと「何でもいい」と言ったにもかかわらず、後になってから出された食べ物じゃないものが食べたかった、とい...

食肉加工工場で働いていた時に感じていた不満

イメージ
食べるということは人間にとって生きていくためになくてはならない大切な事柄のひとつ。 そのため、食べ物に関する仕事は世の中に多く存在している。 自分も以前、食肉加工工場で働いていたことがある。 食肉加工工場とは、牛肉、豚肉、鶏肉を原料に加工し、商品化する工場である。 ハムやソーセージ、味付き肉、スライスしてパック詰めするだけのものなど、さまざまな商品が精造されていた。 ここでは、食肉加工工場で働こうとしている方に知ってほしい、自身の経験や感じたことをまとめてみた。 勤める会社の規模によって違いはあるかもしれないが、多くの工場で共通する部分があると感じている。 着替えるのが面倒 工場に入る前には、会社規定に従って作業着に着替えなければならない。 上下の作業着、長い帽子、毛髪混入防止ネット、マスク、長靴、手袋、そしてエプロンも必要である。 また、アクセサリーなどの小物は異物混入を防ぐためにロッカーに置いておく必要がある。 着替えが習慣化すれば気にならなくなるが、面倒に感じることもある。 仕事が忙しい 作業は単純なことの繰り返しだが、とても忙しく感じた。 早いスピードで動く機械を担当すると、ついていくので精一杯だった。 手作業も忙しかったけど、機械の操作も同様に忙しかった。 全てが忙しかったのを覚えている。 大きな会社で自動化が進んでおり、役割分担が明確であれば、忙しさも異なるかもしれないが、それでも大変さは残ると思う。 危険がいっぱい 食肉を加工する際には、切ったり、熱を加えたり、挽いたりするする作業がある。 包丁やスライサー、チョッパー、茹でる窯など、工場内には危険な道具や機械がたくさんある。 作業中はもちろん、機械の洗浄時にも気を抜くと簡単に怪我をしてしまうため、常に注意が必要だった。 衛生管理は厳しい 食品を扱うため、衛生管理は厳しく行われていた。 抜き打ちで細菌検査が行われるため、作業場所は常に清潔な状態を保たなければならない。 日常的に清掃を行い、衛生管理に務めていたため、検査で問題が発生することはなかったと思う💧……。 人間関係は複雑 どんな職場でも、人数...

不思議な体験〜自分という存在と自己意識

イメージ
これまでの人生の中で自分は、何か不思議な体験をしたことがあったのだろうか?……思い返してみたが、自分はこれまでにこれといった不思議な出来事に遭遇したことが無い。 例えば、買い物に行って目当ての物を買ったつもりが、家について確認したら違うものを買ってしまっていた……これは不思議でも何でもなく、単なる誤解か勘違いである。 じゃあ、どんな事柄が不思議な体験なんだろうか?……。 簡単に言うと現実では起こりえないこと、科学的に説明が難しいこと、だと思う。 現実ではあり得ないこととは、身近なところでいくと死んだ人間が生き返るとか、時間が逆に進むとか、燃えたものが直ぐに元通りになるとか、数え上げたらキリがないけど、実際にそんなものはいちども見たこともないし、体験したこともない。 なので、そんな不思議なことはこの世には存在しない、と判断するしかない。 いくら誰かが不思議なものを見たとか、不思議な体験をしたとか言っても、自分はその誰かじゃないから、信じろというほうが難しい。 次に、いろんなメディアで見たり聞いたりする不思議な話や、写真や映像、これらのことで「いる、いない」や「ある、ない」の議論を見かけるときがある。 そういうのをメディアで見たり聞いたりするのは面白い、というか大好きなのだが、実際に見たり体験したことがないので現実には存在しないもの、と判断せざるを得ない。 これらの事柄がいつまでたっても話のネタになるのは「いる」「ある」を証明することではなく、「いない」「ない」を証明できないからである。 見える人間には見えるとか、周波数が合わなければ見えないとか、次元が違うからとか言われたって、どうしようもないことには変わりない。 だから「いる」「ある」を証明してすべての人間が認識できなければ永遠に「いるかもしれない」「あるかもしれない」という状態から抜け出せない。 そんな解明もされてない物事を「信じる」とか「信じない」なんてのはどっちでもいい話である。 単なるエンターテイメントとして楽しむ、それだけで十分である...

みゃんこを失って感じたペットロスで苦しむ本当の理由

イメージ
19年間、共に過ごしたみゃんこを失ってしまい、心にぽっかりとみゃんこの形をした穴が空いてしまった。 そして、重度のペットロスに陥ってしまい、心が打ちひしがれてしまった。 以前に飼っていたペットを亡くした際も、可哀想に思ったり、もっと大切にしてあげればよかったと後悔することはあった。 その時は、それがペットロスというものだと思っていた。 しかし、みゃんこのときはそれ以上の喪失感があり、もっと大切な何かを失ったような感じに囚われていた。  思い出を振り返る みゃんこが亡くなってからというもの、もっと美味しいものを食べさせればよかった、もっと構ってあげればよかった、もっとそばにいてあげればよかった、と次々に後悔が頭をよぎった。 その後悔は、これまでのときと似た感覚だったが、心の奥底から何かが込み上げ、突然涙が止まらなくなる。 これまでのときとは違い、なぜ、いつまでも心の穴が塞がらないのか?……。 長生きした分、共に過ごした時間が長かったから?、それとも、心の支えとして依存していた存在を失ったから?……。 その可能性もあるが、もっと大切な何かを忘れているような感じがしていた。 そこで、みゃんこが我が家に来てから晩年に至るまでのたくさんのエピソードを思い返してみた。 そういえば、みゃんこを迎えて数年後に自分の母親が亡くなった。 みゃんこにとって、いつも家にいて餌をくれていた人間が突然いなくなったことは、不思議だったに違いない。 また、みゃんこが亡くなる数年前に、15年生きた犬が亡くなった。 犬とは特に親しいわけではなかったが、一緒に散歩に出かけることもあり、決して疎遠な存在ではなかった。 いつも犬小屋にいた犬が突然いなくなったときも、みゃんこは不思議に思っていたのだろう。 そうやって振り返ってみて、ようやく気がついた。 長い間、みゃんこといろいろなことを共有してきたという事実に……。 母親のこと……そして犬のこと……。 悲しみを共有した存在がいなくなり、これからは一緒に共有することができなくなったという現実を実感したとき、本当のペットロスの意味が分った瞬間だった。 あとがき 本当のペットロスとは、哀れみや後悔、そして同じ時間...

大人になっても消えない悩みと不安に向き合うということ

イメージ
子供の頃、今では取るに足らないようなことで悩んでいたり、不安になったりしていた。 当時は「大人になればそんな悩みや不安からは解放される」と子供ながらに信じ込んでいた。 なぜなら、子供目線では、大人たちは悩みや不安を抱えているようには見えなかったからである。 だから早く大人になって、悩みや不安から解放されたいと思っていた。 しかし、成長するにつれて、それは幻想だと気づかされてしまった。 大人になっても悩みや不安が尽きることはなく、むしろそれらはさらに深刻さを伴っていったのである。 以前の悩みや不安が解決しても、新たな問題が次々にやって来る、それが人生の現実だった。 人間関係、仕事、お金、健康、家族、老後、そして死への不安……これらの問題は、一瞬でも気を抜けば心が押しつぶされそうになってしまう。 大人になると、こうした悩みや不安から完全に逃れることはできないと痛感させられる。 生きている限り、不安や悩みとは共存しなければならない。 時には「欲望さえ手放せれば、もっと楽になれるのでは」と考えたこともあったが、それも簡単ではない。 結局のところ、悩みや不安とどう向き合いながら生きていくかを学ぶことが、我々にとって大切な課題だと思う。 そこには何かしらの対処法や心の持ちようが必要である、例えば、悩みや不安に押しつぶされないためには、以下のような工夫が役立つと思う。 小さな目標を立てる 大きな悩みを一気に解決するのは難しいが、少しづつでも改善を目指し、小さな目標を達成することで、心に余裕を持たせる。 例えば、今日ひとつだけ問題に取り組む、一日のうちで少しだけリラックスする時間を持つ、という感じである。 悩みを書き出す 頭のなかで悩みや不安がぐるぐる回っていると、それが大きく感じられることがある。 紙に書き出すことで、現実的な解決策が見えやすくなったり、問題が整理されて、少し心が軽くなることがある。 他者に話す 悩みをひとりで抱え込むことは、さらにそれを深刻化させてしまう。友人や家族、あるいは専門家に話すことで、他の視点からアドバイスをもらえたり、自分だけが悩んでいるのではないという安心感を得られる。 適度な距離を持つ 悩みや不安に過度に向き合いすぎると、逆にそれに飲み込まれてしまうこともある。 問題に取り組む時間と...

共感とアドバイスの狭間

イメージ
心というものは、人間ひとりひとりに唯一無二のものとして存在し、それぞれの内面は独自の感覚や感情の集まりである。 それぞれの人間の心の状態は、その人間自身にしか完全には理解できず、他人の心の状態を推し量ることは、表情や行動から判断する以外にない。 他人の心の状態を想像する際には、自分がこれまでに経験した類似の感情や状況を基に「こんな感じだろう」と推測するしかないと思う。 他人が本当はどのように感じているのか分からないにもかかわらず、「共感」という言葉が世の中にはある。 それでも、双方が納得できるのであれば素晴らしい言葉だと思う。 しかし、問題は共感した上でアドバイスをしてくる人間である。 「気持ちは分かるが……」と切り出して改善策を提案することがある。 例えば、アドバイスをする人間が過去に受けた心のダメージが30%程度であった場合、アドバイスを受ける人間の心のダメージが70%であれば、その改善策は役に立たないと思う。 ダメージの度合いが倍以上も違うから……。 さらに、アドバイスを聞いた人間がその改善策を試しても役に立たなかった場合、アドバイスをした本人が「それぐらいのことで……」と感じることがあり、これが更に問題を深刻化させてしまう。 多くの人間は、同じ様な体験をした人間同士は同じ様な心の状態になると勘違いしている。 しかし、性格や受け取り方、心の容量や耐性は人それぞれ異なる。 そのため、分かったふりをしてアドバイスをすることは、しばしば相手を見下す行為に等しくなる……要はマウントを取っているということである。 だから、こうすればいいとか、ああすればいいとか、役にも立たないアドバイスを垂れ流す。 したがって、本当に大切なのは、アドバイスをすることではなく、共感し、事実をありのままに受け入れてくれる(傾聴してくれる)人間との関係を築くことである。 そういう人間との時間こそ、有意義なものであり、価値のある人間関係を構築するための基盤となる。 頼みもしないのに役に立たないアドバイスをしつこくしてくる人間とは、愚痴の対策と同じように距離を取るしかないと思う。 そうやって人間関係の問題を少しずつ減らしていくことが、人生にとって大切な要素である...

お金が存在する理由~人間の欲求と生活を支える手段

イメージ
世の中には、お金というものが当たり前のように存在しているけど、そもそもお金とはいったい何のためにあるのか、ふと考えることがある。 そのお金の一部は税金として徴収され、社会全体を支えるために使われている。 しかし、その恩恵を直接感じたことがない人間にとっては、税金が本当に役立っているかどうか、実感しにくいようにも感じる。 それ以外で、人間ひとりひとりからみたお金というものはいったい何のためにあるんだろう……。 なんとなくだけど、人間の欲が根底にあるような気がするので探してみた。 能力を補うため お金を使うことで、自分ではできないことを他者に依頼したり、自分に不足している知識を購入することができる。 例えば、法律や会計に詳しくない人が弁護士や税理士に相談してトラブルを解決したり、専門的な技術が必要な工事をプロに頼むことが挙げられる。 自分では持っていないリソースを、お金を使うことで補い、効率的に問題を解決することができる。 また、自己投資として、知識を身につけるために本を買ったり、スキルアップのためにセミナーに参加したりすることも、お金で能力を補うひとつの方法である。 こうして得た能力が、将来的には収入や生活の向上に繋がることも期待できる。 承認欲求を満たすため お金を使って、自分の社会的な地位や成功を他人に見せつけることで、周囲からの評価や賞賛を得たいという欲求を満たすことがある。 例えば、高級車やブランド品を購入することは、その持ち主が経済的に余裕があり、成功していることを他人にアピールする手段になる。 周囲から「凄い」「羨ましい」と思われることで、自分の存在価値や成功を実感し、承認欲求が満たされる。 また、高級レストランやリゾート地に行くことや、最新のガジェットを手に入れることも同様に、自分のライフスタイルを他者に見せつけるための手段に成り得る。 SNSにこれらの経験を投稿することで、フォロワーからの「いいね」やコメントがもらえ、さらに自分の価値を感じることができる。 しかし、こうした行為にはリスクもある。 過度に他者の承認を求めてお金を使い続けると、他人の評価に依存し、経済的な負担が大きくなる可能性もある。 また、周囲から嫉妬や批判を受け、人間関係が悪化するすることもある。 欲を...

自分の物差しで他人を測ってはいけない

イメージ
物差しとは定規のことを指すが、ここで言う物差しとは人間ひとりひとりの価値観のことを指している。 人間ひとりひとりの物差しは違うはずなのに、なぜか、自分の物差しで他人を測ってしまっているし、他人の物差しで自分が測られているときもある。 都合良く、自分が思っているように相手が思っている、自分が感じているように相手も感じている、自分が考えているように相手も考えている、と思い込んでしまっている。 逆に他人がそう思っているときもある……。 そして、人間関係がうまくいかないときってのは双方とも相手を自分の物差しで測ってしまっているから、というのもあると思う。 たとえば、同じ会社で仕事も給料も同じでも、やりがいを感じて楽しく仕事をしている人間と愚痴ばかり言ってつまらなく仕事をしている人間がいたとする。 片方はこんなに楽しい仕事なのになんで愚痴ばかり言ってるんだと思うし、片方はこんなつまらない仕事になんでやりがいなんて感じてんだと思っているかもしれない。 どちらも自らの物差しが正解だと思っているので職場の人間関係はおのずと悪化する。 どこの職場でもよくある光景だけど……。 双方とも相手がどんな物差しなのかを理解するようにすれば、人間関係はおのずと良好になるのに、職場ではチョット難しい。 なので、なるべく自分と他人の物差しは違うんだ、と意識するようにはしている。 自分が理解できる物差しの持ち主とは良好な人間関係を築き、自分が理解できない物差しの持ち主とは距離をとる。 理解できそうもないと感じたら無理して理解しようとしない、疲弊するだけだから。 そして、否定もしてはいけない、物差し=価値観を否定してしまうと、その人間そのものを否定してしまうことに繋がってしまう。 人間関係はもちろん最悪になってしまう。 なので、そういう人間も世の中にはいる、程度でいいと思う。 本気になって批判したとしても何がどうなるわけでもない。 そうやってめんどくさい人間関係の負荷を減らしていく。 そうすれば人間関係の悩みも少しは減少するかもしれない……。 イラスト acworks 投稿:2022.2.15 火曜日

時間は無情にも過ぎていく

イメージ
自らに与えられた時間はこの世に生まれた時から始まり、死ぬまで続く。 子供の頃はあんなに長く感じたのに、大人になるとあっという間に時間は過ぎていく。 それは、年を重ねるごとに早く感じてしまう。 楽しいことは一瞬で過ぎ去ってしまい、嫌なことは一瞬でやって来る。 と思ったら、それすらもいつの間にか過ぎ去って行ってしまう。 その時間というものは何なのか、ということを考えていた時期もあったが、それこそ時間の無駄だった。 何がどうなったとしても時間というものは無情にも過ぎ去っていくもの、人間ごときの力ではどうすることもできない。 もし、タイムマシンがあったとしたら、未来に行っても過去に行ってもたぶん、自分の欲を満たすためだけに使うと思う。 未来に行っては未来の情報を手に入れて、現在からの未来を自分の都合のいいように変えていく。 過去に行っては現在までの情報を過去の自分に教えて、過去から現在までを自分の都合のいいように変えていく。 思い通りの人生を手に入れることができそうだが、人間は満足できない生き物なので、もっと良くしようと考えてしまう。 そしてタイムマシンに乗りっぱなしで、それ自体が人生の目的になってしまう。 ある日気づくと思う、タイムマシンを使って自分の人生を変えてきただけで、自分が生まれた時から携わってきた自身の時間は何も変わらなかったと……。 いつまでも満足できなくて自らの残り時間が少なくなったとき、自分の人生はなんだったのか、となってしまうかもしれない。 でも、タイムマシンなんかないから潔く諦めて現状に満足できるように心掛ける。 そして、過去に悔やんでいる時間があるなら、その時間を限りある未来が有意義なものになることだけを考えるために使う。 過去なんて二度とやってこないのだから……。 時間は無情だということを心得て、これからの人生をやる気を出して大切に生きていくほうがいいと思う。 ……ていうかそれしかない。 イラスト イラストスター 投稿 2022.2.5 土曜日

温かだったみゃんこ

イメージ
真冬の寒い夜……。 風の音と遠くで木の枝が何かに擦れる音が重なり合い、外は凍えるくらい寒いというのは部屋の中からでも感じ取れる。 そんなとき、遠くから鳴き声が聞こえてきた。 その鳴き声はだんだん大きくなってくる、鳴きながら移動しているらしい。 鳴き声の主は我が家のみゃんこである。 まったく……こんな真夜中までいったいどこをほっつきあるいていたのか……。 何処かに遊びにいくといつもこんな感じで帰ってきていたのを思い出す。 みゃんこが二階の窓から自由に行き来できるように鍵は掛けないようにしていた。 閉まっている窓を前足で開けることができたので、入るときも出ていくときもみゃんこの自由のはずだったが、遠くから鳴きながら帰って来るときは何故か窓の前にいて、自ら窓を開けて入ってはこなかった。 窓のそばにいるのは分かっているので呼んでみても、ささやくように鳴くばかりでいっこうに部屋に入ってこない。 寒いので眠りにつこうとしていた時とかはベッドから起き上がってまで窓に行くのはめんどくさかった。 いつまでも鳴いているからしょうがないのでベッドから起き上がり、窓を少し開けてあげる、それでも部屋に入ってこないで鳴いている。 「ほらっ、寒いから早く」と声を掛けると何故か申し訳なさそうに部屋に入ってきた。 寒いので窓を閉めてベッドに戻る。 それからみゃんこは毛繕いモードに突入する。 しばらく経つとベッドの横で温かい布団の中に入りたいと鳴き始める。 勝手に布団の中に入ってこればいいのに、なかなか入ってこないで鳴くばかり。 しょうがないのでまた「ほらっ、寒いから早く」と声を掛けるとやっと布団の中にもぐりこんできた。 最初は冷え切った体が冷たいと感じるが、すぐに温かくなる。 そして、双方があったかポッカ状態になる。 今思うと、その時が最高に幸福なときだったと感じる。 あの温かさが掛け替えのない命、そのものだった……。 同じような真冬の寒い夜に、風の音と遠くで木の枝が何かに擦れ、重なり合う音が聞こえてくると、そのことを思い出してしまい、とてつもなく寂しくなる。 でも、当時のことを思い出すと心は何故か温かくなる。 この世にいなく...