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12月, 2021の投稿を表示しています

貢献する相手を間違うと心が疲弊してしまう

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他人に貢献する、なんか、とっても素晴らしいことのように思えるんだけど……。 そして、見返りを求めないで他人に貢献すると、幸福感を得られるとよく言われている。 もしかすると、人間関係を良好にするためには、他人に貢献することが不可欠なものなのかもしれない……。 しかし、自分の人生経験を振り返ると、必ずしもそうではないと感じている。 この世で最も貢献すべきは自分自身であり、まずは自分に貢献するのが最優先である。 その後に、他人に貢献したいという思いが心の中から溢れ出たとき、そして見返りなんて微塵も考えてないとき、それが最善の行動になると思う。 ただし、他人に貢献する際は余計なお世話にならないように注意が必要である。 見返りを期待しないで貢献する 無理、自分はそんな人間じゃなかった……。 今までの経験を思い返してみると、最初は見返りなんて微塵も期待しないで貢献はできるのだが、その後に相手の言動や態度によって不愉快にさせられたりすると、「あの時やってあげたのに」という思いが貸しのような感じで出てきてしまう。 見返りというのはなにも、やってあげたことに対して相応のものでなくて、最低限こちらを不快にしてほしくない、フラットな状態でいたいというのが含まれていることが時間の経過とともに分かってきた。 貢献している時点では見返りを求めていないのに、後に相手から不快にさせられたり、腹が立つ言動があったりすると、その相手に貢献したときのことを思い出してしまい「恩を仇で返す人間だ」と思ったりして、貢献なんてするんじゃなかったと思うようになってくる。 こういうふうになるということは、貢献した後に相手からどんなに不快なことをされても心を乱さず、さらに貢献していける人間が幸福になれるということなのかもしれないが……。 そんな人間なんているのかって感じだけど、世の中広いから、もしかしたらいるかもしれない。 自分はまだまだ心の狭い人間なのかもしれない……。 自分にプラスになる人間には率先して貢献する これが理想であると思う。 こちらを快い状態にしてくれる人間に対しては率先して貢献するようにしている。 すると相手の返報性の法則も働いて相手も貢献してくるので、

儲け話しには乗らないように注意していること

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「楽して儲かる」……えっ、そんな仕事なんてこの世にあるのかな?。 「誰でもできる」「簡単」「短時間で高収入」……なんか、その仕事のことが気になってきた。 挙句の果てに「初期費用無し」……なんて言われたら、いてもたってもいられなくなってくる。 ネット等でそういう広告を見かけると「世の中には他人に儲けさせてくれる親切な人間もいるんだ~」と嬉しく感じてしまう。 だけど……「絶対に損はしない」とかって言われると、なんかその仕事の内容が怪しく感じてきてしまう。 お金に関することでリスクが無いなんてことは有り得ないので、絶対に儲かるなんて言われたらアウトだと判断するようにしている。 ていうか、儲け話を他人に進める時点でアウトのような気がするんだけど……。 なぜ他人に儲け話を進めるんだろう……。 調べるのもめんどくさいので発信者の立場になって考えてみることにする。 自分だったら儲け話を他人には話さないと思っているけど……。 思ってはいるけど、お金がたくさん入ってきたら気持ちが大きくなってしまい、自慢したくて居ても立っても居られなくなり、ついうっかり話してしまうかもしれない。 もう誰でもいいから凄いって言ってもらいたくてしょうがない状態、承認欲求の塊になる。 もしくは、いっしょにお金に困らない人生を歩むため、といって勧めてしまうかも。 しかしこれは自分が知っていて尚且つ信用できて信頼できる人間に対してのみのことである。 なので、ネットとかでよく見かける儲け話は、単なる自慢ではないし、見知らぬ人間にお金儲けをさせるだけとも思えない。 ということは、発信者が儲かるような「仕組み」みたいなものが完成しているからだと思う。 それが何なのかは分からないが、もしかしてフランチャイズのような仕組みかもしれない。 フランチャイズとはコンビニエンスストアなどで採用されている仕組みのことで、セブンイレブンの看板を掲げて店舗を運営するならば本社に毎月、高額なロイヤリティという権利を使用する対価を支払わなくてはならない。 対価を支払ったとして、それでも儲かっていればいいのだが、お客の数が限られている場合、同業者が増えれば増えるほど利益が分散してしまう。 例えば、

生きる意味ってなんなんだろう

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生きる意味を見出そうとするのは、地球上の生命体の中でも人間だけかもしれない。 自分なりに生きる意味を考え始めると、その答えはあるようにもないように感じられる。 これは非常に曖昧でとらえどころのないものだ。 長い間この問題に悩んでいると、なぜこんなにも面倒な思考を持つ生物に生まれてしまったのかと思ってしまう。 この世に生を受けた以上、一生懸命に生き、寿命がきたら死ぬ、それだけで充分な気もする……。 しかし、人間として生まれた以上、何か生きる意味のようなものを見つけて、たったいちどしかない、かけがえのない人生を全力で生き抜いていくしかない。 時にはめんどうだと思うこともあるが、やる気を出して生きる意味を見出さなくてはならない、とは言っても……何も思いつかないんだけど。 なんとなくではあるが、「何のために生きるのか」が生きる意味のような気がする。 それがないと生きていけないこと、それが支えになるようなこと、だと思う。 人によってその意味は異なるが、例えば家族のため、お金のため、社会のためなど、様々なことが考えられる。 それらに上手く関連づけることできれば、それが生きる意味である。 もし、関連づけできなかった場合、生きる意味なんてないことになるのか?……。 そんな時は、自分のため、自身の体のために生きる、それでいいと思う。 自らの肉体は生きる意味がなくても一生懸命に生きようとしているからである。 新陳代謝・免疫機能・体温調節など、これらが正常に働いているうちは生きなくてはならない。 しかし、人間は自らが作り上げた虚構に惑わされ、追い詰められて自らの命を絶ってしまうことがある。 その瞬間まで、自身の体は生きようとしているのに……なんか、もったいないような気がする。 人間は他人に対して、「あの人間はこうあるべき」と勝手に思い込み。人間関係を面倒なものにしている。 もしかすると、自らの命を絶つ人間は、他人からこう思われているから自身はこうあるべき、と勝手に思い込んでいるのだろうか?、そんなことはないと思いたいけど……。 本来、人間を含む全生命体に生きる意味なんてないと思う。