投稿

10月, 2021の投稿を表示しています

他人を見返してやるための怒りとやる気

イメージ
たまにだけど、過去の人間関係で腹の立つ出来事を思い出したとき、純粋な怒りが湧いてくることがある。 これは、過ぎ去った過去だからこその現象で、もしその過去から未来への影響を考え出してしまうと、単なる怒りから不安へと変わり、心に重荷がかかる。 だから純粋な怒りにはならない。 『純粋な怒り』って、どう説明したらいいかわからないけど、心が重たくならず、ただただ頭の中で怒りだけが渦巻いている状態だろう。 睡眠中の反芻(はんすう)は、怒りと不安が混じり合って心が疲弊して眠れなくなる。 でも、純粋な怒りだけなら、心の負荷はないから、ストレスとは違うものなのだ。 その純粋な怒りの先には、『見返してやりたい』という思いがある。 そして、自身の劣等感がその引き金となる。 だからこそ、単なる怒りではなく、『成長して相手を超えたい』という強いエネルギーが生まれるのだ。 その怒りが湧き上がると、不思議と『やる気』も一緒についてくる。 体がスタンバイの状態となり、後回しにしてきた面倒なことも、思わず手をつけたくなることがある。 しかもそのとき、見返してやりたい事柄と直接関係がないことでも、勢いで片付けられるから面白い。 ほとんどの人間は、他人よりも優位でありたいという生存本能を持っている。 単なる劣等感だけなら落ち込みで終わるだけだけど、『見返してやる』となれば成長が求められる。 つまり、純粋な怒りが成長への扉を開いてくれるのだ。 過去の屈辱、悔しさ、恥ずかしさを思い出したとき、もし純粋な怒りが湧き出してきたなら、それは単なるネガティブではない。 『強く、豊かに生きたい』という、自身の未来へのメッセージなのだ。 その怒りをうまく活用できれば、多様な挑戦ができ、自身の成長につながる。 もしかしたら、怒りという感情は単なる『闘争本能』ではなく、成長や進化を後押しする『生存本能』なのかもしれない。 そうして成長し、やがて寛大で心豊かな人となれば、過去のつまらない出来事など笑って受け流せるようになる。 いや、純粋な怒りの力で『人生を有意義』にできれば、それこそ最高の勝利なのではないだろうか。 イラスト:gontyan 投稿:2021.10...

依存とやる気の関係

イメージ
「依存が人間にとって必要かどうか」は、意見が分かれる問題だと思う。 依存とは、何かに頼らなければ生きていけない状態のことを指す。 たとえば、極端なケースではギャンブル依存症やアルコール依存症のように、日常生活に支障が出るレベルにまで悪化してしまうこともある。 けれども、依存そのものがすべて悪いわけではない。 たとえば、子供の頃は親に依存しなければ生きていけないし、大人になっても社会や仕事、お金、家族などにある程度の依存は避けられないと思う。 人間は、もともとひとりでは生きられない存在だ。 だからこそ、家族や友人、恋人、ペットなど、何かに支えられていること自体は悪いことではない。 むしろ、心の安定や健康のために大切なことでもある。 無意識の依存が生む落とし穴 問題なのは、自分でも気づかないうちに依存が深まってしまうことだ。 たとえば、会社に強く依存している人がいるとする。 その人は「仕事つまらない」「給料が安い」と愚痴をこぼしながらも、「仕方ない」と諦めて会社にしがみついてしまう。 転職や環境改善のための努力もせず、現状を受け入れるだけになると、やがて不満は自分の中だけでなく、家族や同僚など周囲にも悪影響を与え始める。 依存は、安心感や一時的な安定をくれる一方で、自分の行動力や選択肢を奪ってしまう側面もある。 自分が何に依存しているかを知ること 「依存=悪」だと一括りにすることはできないけれど、自分が何に依存しているのかを知っておくことは大切だと思う。 もしその依存対象を失ったとき、自分はどうなるのか?、それを想像しておくだけで、必要以上に依存に縛られずにすむし、精神的にも安定しやすくなる。 たとえば、親やパートナーの評価、職場からの承認だけに頼っていると、それがなくなったときに心が折れてしまうことがある。 そうならないためには、自分自身を支える力を少しづつでも育てていくことが大切なのではないだろうか。 自分を支える力を育てるためにできること 依存から少し距離を取るための具体的な方法もある。 たとえば、 ・他人の評価だけに頼らず、自分で自分を認める練習をしてみる ・何かに頼る前に、自分でできることはないかを考えてみる ・「どうしたいのか?」を自分自身に問い直してみる そうした小さな積み重ねが、精神的な自立へ...

オタマジャクシから学ぶ自然と人生の不確実性

イメージ
かつて水たまりがあり、その中央付近のいちばん底が深かった場所に、オタマジャクシたちは寄り添うような形で死んでいた……。 これまでも死んだオタマジャクシを何度も見たことがあるけれど、今回の出来事はちょっと考えさせられてしまった。 自然界にいる生き物たちは環境の変化に影響を受けてしまうのだが、今回の件は運の要素を強く感じてしまった出来事だったからである。 なので、運に支配されている人間も例外ではないと思ってしまった。 梅雨時、毎日のように小雨が降り続いていたときの話。 水たまりがあり、毎日の雨のおかげでたまった水が無くならない状態が続いていた。 ある日、何かが動いているのを発見。 ボウフラでも繁殖しているのかと思いきや、なんとオタマジャクシだった。 親カエルはこんなところに卵を産んでいったらしい……。 ふ化したばかりだろうか、チロチロと泳いでいる。 こんな水たまりなんか雨が降らなくなったらすぐに蒸発するか、土に染み込んで水がなくなってしまう。 それに、食べるものもないのですぐに死んでしまうだろう程度に思っていた。 なので気にもしなかった。 しかし、その年の梅雨は水たまりを維持するかのように毎日、雨が降り続いた。 たまに見かけるたびにどんどん大きくなっていくオタマジャクシ。 最初はチロチロと泳いでいたオタマジャクシは狭い水たまりの中でウヨウヨとひしめき合いながら泳ぐくらいにデカくなっていた。 ここで疑問が湧いてきた、何を食べて大きくなったんだろう……。 微生物?それとも土から染み出した養分、もしかして雨の中に何かしらの栄養素があるのだろうか……。 気になったので調べてみたら蛙は昆虫などを食べる肉食だが、オタマジャクシ時代は草食らしい。 草食?……。 だとするとその水たまりには、雨雲で太陽の光が遮られた状態でも、わずかだが苔が生えていることになる。 それをみんなで食べて大きくなった、ということになる。 この大きさなら間もなく足や手が生えてくるし、えら呼吸から肺呼吸に変われば、いつ水が無くなるかもしれない不安定な水たまりから卒業していくことができる。 あともう少しの辛抱でカエルになれる。 毎日降り続いていた雨もいつの間にか止んで...