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11月, 2021の投稿を表示しています

大好きなもち米に含まれていない成分

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スポンサーリンク もち米とは、おもちの原料になるお米のこと。 おもちはそのまま食べても美味しいが、しょうゆもち、なっとうもち、のりもち、づんだもち、くさもちになるとさらに美味しい。 おぞうにも大好きだが、やっぱり味噌ラーメンにおもちを入れるのが最高だと感じる、あのお雑煮のようにドロドロになってから麺に絡みついた時の食感が何ともいえない。 その他に大好きなのは、おこわ、おはぎ、おだんごなど、もち米とうるち米とを混ぜたものも大好きである。 うるち米とは普段の食事で食べるお米のこと。 精米した状態で両方のお米を見比べたときに、昔から疑問に思っていたことがある お米を炊く前のうるち米は半透明なのに、なぜもち米は最初から白色なのかと……。 白色ということは、あのもちもちした粘りのある食感は何か特別な栄養素が含まれているのかもしれない、と長い間そう思っていた。 長年にわたり疑問に感じていたことを払拭するために、いったい何が含まれているからもち米はあんなにおいしいのか調べてみることにした。 なんと逆だった、うるち米に含まれている栄養素がもち米にはないから、らしい……。 お米にはアミロペクチンとアミロースというデンプンが含まれており、うるち米はだいたい80パーセントくらいがアミロペクチン、残り20パーセントくらいがアミロースで成り立っているらしい。 しかし、もち米はアミロースがほとんど含まれず、ほとんどがアミロペクチンというデンプンで成り立っているという。 なんと、たった20パーセントのアミロースというデンプンがないだけで、あんなに食感が変わるなんて、あっ色もだった。 なんか、また、長年の思い込みが覆されてしまった。 基本となるうるち米と、あんなに味や食感が違うのだから何か特別な栄養素が含まれていると思いこんでいたが、逆にうるち米に含まれていた栄養素がないから、だとは思わなかった。 逆にもち米が主食で、たまにうるち米を食べるのだったら、アミロースが含まれているから半透明であの味と食感だ、となっているのかもしれない。 いつも注意していることは物事をひとつの方向から見ないこと、つねに何故なんだろう?とあらゆることがらを疑ってみる。 そうすれば、決めつけ

ものの見方を変えて考え方を変えてみる

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ものの見方を変えてみたら……なんとなくだけど腹の立つ頻度・悩み・ストレスなどが減少したような感じがする。 今まで否定的だったことを肯定的に捉えるよう努めてみたら……いままで見えなかった新しい世界が見えてきたような、そんな感じがする。 それには柔軟な考え方と諦めるということに重点を置いた。 最初はなかなか受け入れられず、考え方を変えるのにけっこう苦労したような気もするが、その努力は価値のあるものになったと思う。 人生 生まれてきたからには幸福にならなければならない、幸福であるべきだ、という「べき思考」に囚われていた。 しかし、最高の幸福でも、最低の不幸でも、死んだら終わりだと思ったときに何の意味もないことに気づいてしまった。 死んだ後に振り返れることができれば、意味があるかもしれないけど……。 しかし、現時点では死後の世界の話で納得できる答えは見つかっていない。 なので、どんな人生だとしても今のこの瞬間を大切に生きることが最善だと思う。 今を感じるために瞑想やマインドフルネスに挑戦しているが、まだその域には達していない。 達したときにはさらに考え方が変わっていると思う。 仕事 誰かがめんどくさいと思っている仕事を、自分が代わりにやってあげていることで報酬を貰っている、と考えてみた。 なので、自分がめんどくさいと思うことで、誰かが代わりにやってくれている仕事には感謝の気持ちとしてお金を払う。 こうやって世の中がうまく回っていると、無理やり思い込ませたふしがあるのは否めない。 なので、どんな仕事にも意味があると思う。 人間関係 ものの見方を変えた程度ではどうすることもできないことのひとつ。 この世に人間がいて自らが人間だとすると人間関係の悩みを解決するのは難しい。 ていうか、欲がなければもしかして、とも思うがそれじゃあ人間じゃなくなってしまう気もする。 諦めて無人島に行ってひとりきりで生きていく、今の便利な生活を捨ててまで行く気にはなれないが、もしかして何か気付きがあるかもしれない……。 あっ、ひとりだから人間関係で悩むことなんてないんだ。 時間 時間は概念なので実際には存在しないらしい。 実際には存在し

やる気を出していろんな事に挑戦してみる

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子供の頃は、新しいことに対する興奮や楽しさを日常的に感じていて、何をするにも新鮮な気分でいられたような気がする。 でも大人になると、そんな感覚が次第に薄れていき、何もかもが新鮮じゃなくなり、心の奥底から楽しめるものも少なくなってくる。 なぜなんだろう……。 楽しい気はするんだけど、子供の頃ほど新鮮な気分を味わえないし、心から楽しめるのも減ってしまった。 大人になってからも、なんとなく楽しいとは感じるんだけど、その偽りのような楽しさしか感じないのには何か理由があるんだろうか?……。 いろんな経験を積んでしまって何となく予測や予想がついてしまって驚きがなくなってしまったのか、それとも……。 何となく分かるのは、純粋さがなくなってきているから。 悪く言うと心が汚れてしまった、考え方が雲ってきた、感情が鈍ってきたから、だと思う。 なんか、人間らしくなったから、と言えばそんな感じがするけど。 しかし、それでも、いろんなことを分かったふりして惰性で人生を生きていくのはもったいない、ていうか人生がとてつもなくつまらないものになっていくような気がする。 もうなっているので何とかしないと……。 このままだと楽しいような楽しくないような曖昧な感じで人生が終わってしまうような気がする。 そして思ったのが、人生がつまらないと感じてきたら、新しい体験や未知の世界にふれる機会を増やしていくしかないということ。 子供時代には到底及ばないが新鮮な感じを少しでも体験する方法は挑戦しかない。 挑戦といってもいきなりバンジージャンプとかじゃなくて、小さいことでいつもと違うことから始める。 例えば、日用品ならいつもと違うものを購入して試してみたり、服ならいつもと違うものを購入して着てみたり、食べ物の新製品を見つけたら普段食さないものでもとりあえずは食べてみたり、時間とお金があるなら見知らね土地に旅行に出かけるのもいい。 最初は不安に感じたりめんどくさく感じるかもしれないが、毎日同じことを繰り返すよりも、いろんなことに挑戦して少しでも新鮮味を味わっていけば、自身の成長を促すことができるかもしれない。 そうやってつまらなくなった人生を少しでも楽しいに変えていき、惰性じゃない人生を歩んで

価値のない虚構に価値を与える

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道端に転がっている石ころに、「持っているだけで幸福が訪れるスーパーストーン」というキャッチフレーズを付けてみる。 そして、売り出すときの値段を100円くらいにして販売する。 もしかしてと思って買ってくれた人間が望んでいた幸福が訪れなかったとしても「100円だからしょうがない」と諦めてくれると思う。 しかし、もしこれを1万円で売ったとしたら……望んでいた幸福が訪れなかった場合は詐欺で訴えられてしまうはずである。 価格が高いほど物に対する価値観が変わることを考えると、人間は価格によって価値を感じる傾向ががあるように感じる。 「そんなもの買ったりしない」「そんなものには自分は騙されない」と思うかもしれないが、世の中には価値のない虚構に対して、誰かが勝手に価値を与えたものに、惜しみなくお金を払っている人間がたくさんいるのも事実である。 価値を植え付けられる 物心がつくまでの子供には価値という概念は存在しないと思う。 もし、本能で感じているとすれば価値があるのは母親か、もしくは世話をしてくれる人間くらいだろうか?……。 そして、物心がついた後には、子供時代に見たり聞いたり触れたりして影響を受けたものや、成長過程で周りにいた人間に価値観を植え付けられたりして、価値のないものに価値を見出していくと思う。 だから人間の価値観はそれぞれ違うものになってしまう。 価値の決め方 やっぱり造るのに時間がかからないものや劣化しやすいもの、どこにでもあるものや誰にでもできることは価値が低く設定されるので値段も安いと思う。 逆に造るのに時間がかかるものや劣化しにくいもの、希少なものや資格がないとできないものは価値が高く設定されているはずである。 虚構に価値をつける 千円札には千円の価値がある。 千円で買える物には本当に千円の価値があるんだろうか?。 物の価値は原料の手に入りやすさ、製造時間と手間、流通の方法、販売のしかたなどで値段が決まってくる。 これらは誰かが決めたことであり、条件が変われば価値も変わってしまう。 もともとあらゆるものには価値というものは存在しない。 人間がつくった虚構に価値を与えているだけである。 そしてその虚構を信じているおかげで

電気に頼らない生活の挑戦と学び

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電気に頼らない生活を目指すといっても、今の生活環境ではどう考えたって難しいことのひとつに数えられる。 しかし、東日本大震災の時に停電になり、電気の使えない生活をしばらくのあいだ余儀なくされた。 この経験から、どれだけ電気に依存しすぎていたことも分かったし、電気が使えなくても何とか生きていける、ということも分かったので貴重な体験をしたと感じている。 もしかしたら、人間が生きていくのに電気というものは必ずしも必要不可欠なものではないのかもしれない。 でも、ないと困るのも確かである。 電気がないと動かないもの達 現在、家の中で電気がないと稼働しないもので生活に必要なもの、照明・冷蔵庫・洗濯機・エアコン・炊飯器・電子レンジ・掃除機・ファンヒーターなど……。 情報を得るための媒体、テレビ・ラジオ・パソコン・タブレット・スマートフォンなど……。 その他にも、ドライヤー・プリンター・DVDプレイヤーなど、探せばまだまだあると思う。 こうやってみると人間は、電気がないと稼働しない電化製品というものに支配されているようにも感じる。 なにかひとつでも欠けたら不便だと感じてしまうだろう。 あとは、完全に電気に支配されているオール電化住宅なんてのもある。 今ある電化製品と代替できるものを探す 電気がない時代があったんだから代替できるものは必ずあるはず、と思いながら探してみたけど、たいしたものは思いつかなかった。 照明の代わりになるもの、ロウソクぐらいしか思い浮かばないけど東日本大震災の時は乾電池のストックがあったので夜は懐中電灯で過ごした。 冷蔵庫の代わりになるもの、クーラーボックスに氷を入れるくらいしか思い浮かばないけど、そもそも氷を作るのにも電気が必要、真冬だったら必要ないけど。 洗濯機の代わりになるもの、タライで手洗い、レベルアップしたら洗濯板を使う。 エアコンの代わりになるもの、ウチワが最適。 炊飯器の代わりになるもの、ガスが使えれば心配ない。 電子レンジの代わりになるもの、これもガスが使えれば問題ない。 掃除機の代わりになるもの、ほうきとちり取りが最強。 ファンヒーターの代わりになるもの、やっぱり反射式石油ストーブだと

ミニマリストになりたいのに物が捨てられないのはなぜ?

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ミニマリストになりたいんだけど……。 👀「ふ~ん、なればいいんじゃない」 とは言っても、なかなか物が減らないんだけど……。 👀「ふ~ん、減らせばぁ~っていうか、ミニマリストっていったい何なの?」 少ない持ち物で充実した生活を送ること、だったと思うんだけど。 👀「じゃあ、かたっぱしから捨てていかないと、もうすぐゴミ屋敷になっちゃうよ」 でも、もったいないしな~。 👀「あ、もしかして」 ミニマリストに対して持っているイメージ お金に余裕がある。 お金に余裕があるので心にも余裕がある。 心に余裕があるから必要なものと不必要なものを判断できる。 判断できるから無駄なものを買わないで、本当に必要で良い物を購入する。 本当に必要で良い物なので大事にする。 大事にして長持ちするので生活にお金がかからない。 最初に戻る。 なんとなくだけど、ミニマリストになれば好循環が訪れて人生まで良い方向に向かっていく、そんなイメージがあるだけどな~。 👀「だ、か、ら、なればいいのに」 ミニマリストになるのを邪魔する考え 自分の持ち物はたくさんある、っていうか、あり過ぎる。 使っていない物もたくさんある。 クローゼットにはいちども着てないけどいつか着るかもしれない服、本棚にはいちども読んだことがないけどいつか必要になり読むときがくるかもしれない本、あとは、小物類を入れるケースは未だに空である、その他に得体の知れないものがわんさかある。 今まで着ていなくても、これから着るかもしれない服を処分してしまったら同じ服を買うのにお金がかかる。 今まで読んだことがなくても、いつか必要になるときがきて読みたくなるかもしれない。 今まで何も入れたことがないケースでも、これから片づけをしようとやる気が出たときに、入れ物がなかったらせっかくのやる気も失せてしまう。 得体の知れないものは得体の知れないものだからどうしようもない。 これらは来るか来ないか分からない未来のために、処分することをためらっているだけなのだが……。 そして、たまに片付けをすると、存在すらも忘れていた物が出てくるときがある。