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魂の存在とその意味を考える

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ある日、ふと思ったことがある。 魂とはいったい何だろうか……。 存在するのか、それとも存在しないのか、どちらともいえない不思議な存在。 魂は、生きている間は体に宿り、死ぬと体から抜け出すとされている。 でも、生まれる前や死んだ後の魂については、多くの説があり、何が真実なのかは誰にも分からない。 魂の本当の意味は「精神的実体」という概念らしい。 でも、この「概念」という言葉自体が曖昧で、「みんながそう認識している」だけであって、本当に存在しているかどうかは、やっぱり分からない、ということでもある。 考えれば考えるほど、分からないことばかりだ……。 もし魂が本当に存在しているとしたら、どんな感じなのだろう。 なんとなくイメージしてみたけど、無色透明の球体のようなものしか思い浮かばない。 その球体が人間の体に宿ると、その人間の人生のすべてが、どんどん詰め込まれていくような感じがする。 でも、ふとこんなことも思った。 人間関係のストレスが溜まりすぎていたら、その魂は真っ黒でドロドロしたものになってしまうんじゃないかって。 そして、その魂が宿った人間の生命活動が終了した時点で、魂はリセットされて元の状態に戻る。 そうして、また次の宿主を探すんじゃないか――そんなふうにも思えた。 リセット?……う~ん、そうだと思うけど、これも仮説にすぎない。 もしかしたら、前世の記憶や因果関係が後世にまで影響を与えるのは、リセットのときに何らかの障害が起きて、記憶や感情が完全には消されずに残ってしまうからなのかもしれない。 怨念のようなものも、そうして生まれるのだろうか……。 でも、これも実証されたわけではないし、真実はやっぱり分からない。 この世は魂の修行の場なのか? この世は「魂の修行の場」だと聞いたことがあるけれど、それがどういう意味なのか、少し考えてみた。 魂というのは、物質ではない高位な存在のはず。 それなのに、なぜわざわざこの下位の物質世界に来て、わざわざ苦しんだり、もがいたりしなければいけないのか?……そんな疑問が湧いてくる。 もし魂の成長が目的なら、もっと高い場所での修行の方がいいんじゃないだろうか。 この現実世界がもし“駄目な場所”だとしたら、そんなところで修行しても魂まで駄目になってしまいそうな気もする。 だけど、逆に考えると……この世は魂をふるい...

あらゆる人間に平等に訪れるもの

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この世には「平等」という美しい言葉がある。 しかし現実の社会で、その言葉の意味を実感するのは、決して容易ではないと思う。 貧富の差、社会的な立場の違い、才能や環境といった生まれ持った要素。 我々の暮らすこの世界は、あらゆる面で「不平等」に満ちている。 どれほど平等な社会を理想として掲げても、それを完全に実現するのは限りなく難しい。 というより、おそらく不可能に近い。 その理由のひとつには、人間が本能的に「生存競争」の中で、他者よりも優位に立とうとする性質を持っていることがあるのかもしれない。 しかし、そんな中でも、どんな人間にも等しく訪れる「本当の平等」が存在する。 それが、「時間」「変化」、そして「死」という3つのものだ。 時間の平等──1日24時間をどう生きるか? 「時間」は、唯一、すべての人間に平等に与えられている資源だと思う。 1日は24時間、1年は365日。この時間の単位は誰にとっても変わらない。 しかし、 その時間をどう使うか は人それぞれ。 同じ24時間でも、それを努力や挑戦に使う人もいれば、何となく流されて過ごしてしまう人もいる。 時間は止まることなく流れ続け、決して過去に戻ることはできない。 その有限性を意識するからこそ、我々は「時間の使い方」に悩み、工夫し、より良い毎日を送ろうと努力するのかもしれない。 変化の平等──人生における「変化」をどう受け入れるか? そしてもう一つの平等が「変化」だ。 どれだけ地位や環境が安定しているように見える人でも、変化から逃れることはできない。 季節が移り変わるように、人生もまた絶えず流れ、体も心も少しずつ変化していく。 新しい出会いや別れ、思わぬ成功や予期せぬ挫折。 変化は我々を喜ばせることもあれば、深く苦しめることもある。 それでも、「変化の中でしか学べないこと」があり、「変化を通してしか成長できない自分」も存在する。 変化に翻弄されるのではなく、変化を受け入れ、それと共に生きることで、人はより深く人生を味わうことができる。 死という究極の平等──死を恐れず、生を深く生きる そして忘れてはならないのが「死」だ。 これは、すべての人間に等しく訪れる、 究極の平等 である。...

「正範語録」という格言をアレンジして人生の役に立てる

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人間関係の悩みは、どの時代においても常に存在する。 人間が生きている限り、これらの悩みは消えることはない。 そして、人生は常に挑戦の連続である。 過去の先人達は、少しでも生きやすくなるようにと、素晴らしい格言を残してくれた。 その中で、特に共感し、人生の指針として役立てているのが「正範語録」である。 「正範語録」 実力の差は努力の差 実績の差は責任感の差 人格の差は苦労の差 判断力の差は情報の差 真剣だと知恵が出る 中途半端だと愚痴が出る いい加減だと言い訳ばかり 本気でするから大抵のことはできる 本気でするから何でも面白い 本気でしているから誰かが助けてくれる これらの言葉は、それぞれ深い意味を持っているが、以下のようにアレンジを加えて人生の指針としている。 自身の経験や価値観が反映しており、オリジナルの格言に新たな意味を加えている。 1 行目の「実力の差は努力の差」という言葉は、努力を積み重ねた人間と、そうでない人間の間には明確な実力の差が生まれることを指している。 努力は積み重ねて初めて実力となり、自信にもつながっていく。 2 行目の「実績の差は責任感の差」とは、責任感を持って取り組むことで実績がついてくる事を意味している。 誠実に物事に向き合うことで、信頼と実績を築くことができる。 3 行目の「人格の差は苦労の差」とは、困難を乗り越えた経験が人間の器を大きくすることを示している。 寛容さや深い理解力が養われる。 4 行目の「判断力の差は情報の差」という言葉については、「判断力の差は経験の差」と解釈し直した。 情報は重要だが、それを適切に判断するには経験が不可欠だと思ったからだ。 1行目から4行目までは他人との比較になっていて、なにかをやった分だけ顕著に違いが表れるという分かりやすいたとえ。 5 行目の「真剣だと知恵が出る」とは、集中して取り組むことで新たなアイデアや解決策が生まれることを意味している。 自分は、たまにしか改善点が思い浮かばないので真剣さが足りてないの...