あらゆる人間に平等に訪れるもの

あらゆる人間が地球上に平等に並んでいる




この世には「平等」という美しい言葉があるが、現実の人間社会でその意味を見出すことは容易ではないと思う。

貧富の差、立場の違い、才能や環境の格差など、社会は不平等に満ちている。

理想として平等を目指しても、それが完全に実現することは難しい、というより不可能に近いと思う。

その理由は我々人間が本能的に「生存競争」の中で他者よりも優位に立とうとする性質を持っているからかもしれない。

しかし、どれだけ環境や状況が異なっていても、すべての人間に等しく訪れるものがある。

それが「時間」「変化」そして「死」である。

これらはどんなに裕福でも、どれほど権力を持っていても、どれだけ信仰心が強くても、誰ひとりとして逃れることのできない普遍的な現象である。


時間の平等

「時間」はあらゆる人間に平等に与えられている。

1日は24時間、1年は365日……。

この単位は万人に共通している。

しかし、時間をどう使うかは個々の選択に委ねられている。

時間は流れ続け、過去に戻ることはできない。

その有限性を意識するからこそ、我々はその使い方を考え、充実した日々を送ろうと努力するのかもしれない……。


変化の平等

また、「変化」もまた平等に訪れてしまう。

季節が移り変わるように、人生もまた絶えず変化し続け、自身の体も、少しづつ変化していく。

そして、新しい出会いや別れ、成功や挫折、予想外の出来事、こうした変化は我々を時に喜ばせ、時に苦しめていく。

それでも、変化を通して学び、成長し、より深い人生を体験することができるのも事実である。


死という究極の平等

そして、「死」というのも忘れてはいけない。

これはすべての人に訪れる最後の平等である。

どんなに健康に気を使っていても、どんなに医療技術が発達していても、人間は必ず命を終える運命にある。

富や地位、知性、信仰の有無も関係なく、死は平等に訪れる。

多くの人間は死を恐れ、直視することを避ける。

なので、「死ぬのは怖くない」と言う人間ほど、体をいたわり、健康診断を欠かさず、老後の心配をする。

年齢を重ねるほど、死への漠然とした不安が強まり、強がりを口にすることもある。

「いつ死んでもいい」と語るその裏には、死を受け入れきれない心が隠れているのかもしれない。


平等を受け入れるということ

生きているときの平等でさえ、生存競争のために受け入れることが難しい我々人間が、死という究極の平等を受け入れるのはさらに困難なはずである。

それでも、この避けられない現実を意識することで、日々をより大切にしようとする気持ちが生まれる。

命が有限であることを知っているからこそ、我々は今をより深く生きようとする。

人生の終わりを思うとき、多くの人が後悔を抱くかもしれない。

しかし、その一方で、死があるからこそ生が輝いて見えると言える。

もし、永遠に生きられるとしたら、我々は今日という日をこんなにも大切に感じるのだろうか?……。


最後に……

人間に平等に訪れる「時間」「変化」そして「死」。

これらは避けられないものだが、だからこそ、我々に生きる意味を考えさせる存在でもある。

この普遍的な現実を受け入れ、それを前提に生きることで、我々はより深く、より豊かに、やる気に満ちた人生を味わうことができるのではないのだろうか。





イラスト:「イラストAC」kabu

投稿:2021.8.20 金曜日

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