努力は本当に平等なのか?
ある時期まで、オリンピックが好きだった。
開催が近づくとワクワクして、始まるとテレビを見るのが楽しみだった。
世界中の選手が、努力のすべてをぶつけ合う舞台。
そう思っていた……。
けれど、世の中の仕組みを少しづつ知るにつれて、見え方が変わっていった。
オリンピックに出場できる人間は、ただ努力した人ではない。
幼いころから協議に打ち込める環境があり、時間があり、お金があり、支えてくれる人がいた人間だ。
つまり、すでに「環境に恵まれた人たち」だけが集まった場所でもある。
その中で、さらに努力を重ねた人たちが競い合っている。
もし、環境の条件が本当にすべて同じだったとしたら、世の中には、今よりもっと「すごい人間」がいくらでもいるのだと思うようになった。
たとえば、今日の食事さえ満足に取れない子どもが、オリンピック選手と同じ環境で育っていたら、もしかすると、余裕で金メダルを取るような人間だったかもしれない。
そう考えてしまってから、オリンピックは、努力の祭典というよりも、人類があまり触れたくない部分を、きれいに覆い隠すための祭典のように見えるようになった。
それが正しいとか、間違っているとか、そういう話ではない。
ただ、そういう見方が一度できてしまってからは、以前のような気持でオリンピックを見ることができなくなってしまった。
努力は、本当に平等なのだろうか……。
努力を語れるのはどんな人間なのか
努力は美しい言葉だと思う。
誰もが否定しにくく、正しそうに聞こえる。
だからこそ、簡単に使われる。
だが、努力という言葉を使えるのは、本当はどんな人間なのだろうか。
少なくとも、努力するための環境が与えられていた人間だ。
時間があり、失敗しても立ち直れる余地があり、挑戦を許される立場にいた人間。
そうした条件を、無自覚なまま持っていた人ほど、努力を「本人の問題」として語りやすい。
逆に言えば、努力する以前に、生きることだけで精一杯な環境にいた人間には、努力という言葉そのものが、遠く感じる。
それでも社会は、結果だけを見て、努力したか、しなかったかを判断する。
環境の話を飛ばして……。
オリンピックが、環境をクリアした人間同士の競争であるなら、日常の「努力論」も、似た構造をしている。
見えているのは、走っている人間だけだ。
走る場所に立てなかった人間のことは、最初から数に入っていない。
だから、努力という言葉は、ときに人を励まし、ときに人を黙らせる。
そして、一番厄介なのは、それを語っている本人が、自分がどんな環境に立っていたのかを忘れてしまうことだ。
努力の話をする前に思い出したいこと
努力は、確かに否定できない。
努力によって救われる人も、前に進める人もいる。
それは事実だ。
ただ、努力は真空の中では生まれない。
時間があり、挑戦できる余地があり、失敗してもすべてを失わない環境があって、初めて成立するものだ。
その前提を忘れたまま、努力だけを切り取って語ってしまうと、見えなくなる人が必ず出てくる。
走れなかった人。
走る場所に立てなかった人。
最初から選ばれなかった人。
努力が足りないのではなく、努力という言葉が届かない場所にいた人たちだ。
だから、努力を疑う必要はない。
だが、努力を万能だと信じすぎるのも危うい。
それだけで、世界の見え方は、少しだけ変わる。