「ゴミ=無価値」の常識を疑う~分別が報われない社会の違和感

分別用のゴミ袋




道路では、レジ袋に入ったゴミがそのまま捨てられていて、カラスがつついて散乱している……そんな光景をよく見る。

もし、ゴミに価値があるなら、そう簡単には手放さないはずである。

分別すれば価値がある?……じゃあなんで無償でさせるの?……。

包装フィルムに印刷されたリサイクルマークを見ながらゴミの分別をしていると、なんか”都合よくやらされている”感が否めない。

そのときふと思った、ゴミに価値があれば、それはもう「ゴミ」とは言わないんじゃないかと……。


分別しないでゴミを捨てる人たち

「燃えるゴミの日だから、これも入れちゃえ」

そういって、ペットボトル、金属、紙くずを一緒にゴミ袋へ……。

多くの人が「分別はめんどくさい」「どうせ一緒に焼かれるんでしょ」と言い訳して、ルールを無視する。

でもそれは、「そのゴミには価値がある」と思っていない証拠だ。

もしそのゴミが現金に変わるなら、分別を「面倒」と思う人は一気に減るはずだ。


ポイ捨てする勇気

道端にたばこの吸い殻や空き缶、ペットボトルを捨てる人がいる。

本当は「悪いこと」だと分かっている。

でも、それでも捨てるのは、ある意味“勇気”が必要だ。

それは「自分が見られていない」と信じているか、「怒られても構わない」と開き直ってるかのどちらかだと思ったけど、単に「めんどくさい」もあるかもしれない……。

しかしその行為の裏側には、「これは価値がないもの」「どうせ誰かが片付けるもの」という、無意識の思考がある。

その人にとって、そのゴミは「存在しないも同然」なのだ。


食品容器や梱包材が高額で買い取られたらゴミはでない?

もし、弁当の容器や段ボールの箱がリサイクル業者に持ち込めば100円で買い取られるっ世界だったら?……弁当の容器は10円かな……。

我々は今のように気軽にゴミを捨てられるだろうか。

現実には、プラスチック容器も、緩衝材も、袋も、原材料を作るにはエネルギーが必要だ。

にもかかわらず、「無料で捨てられる」「お金を払って捨てる」システムが常識になっている。

だから、人々はそれを無価値と見なし、簡単に手放してしまう……それらにもお金を払っているのに……。

価値があるものなら、大事にされる。

逆に、価値が見えないものは、すぐに”捨てていいもの”になる。


ただで分別しているからゴミは減らない

実は、我々が「無償で」分別していることも、ゴミ問題を長引かせている一因かもしれない。

資源ゴミの日に出す感や瓶、それらは再資源化されて一部の業者の利益になるのに、我々は何も得ていない。

もし分別が有償作業として評価され、何らかのリターンがあれば、リサイクルの意識はガラリと変わるかもしれない。

逆に言えば、「ただで分別してもらえる」という仕組みそのものが、自治体や業者側の都合で成り立っているともいえる。

「決められたルールに従うのが当たり前」という空気の中で、”損をしながら正しく行動する人”が損をする構造になってしまっている……。

世の中、なんか変だね……。


「ゴミ」という言葉の裏にある偏見

 「ゴミ」とは本当に無価値なものなのか。

それは、見る人、使う人、場所、タイミングによって、いくらでも「資源」に変わる可能性を持っている。

現代は「モノがあふれている」時代と言われるけど、実際には「価値の判断が雑になっている」時代なのかもしれない。

いらなくなったから「捨てる」ではなく、「いま自分には必要ないが、他に生かす道はないか」と考えるだけで、世界は変わっていく。





投稿 2025.8.5 火曜日 

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