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真ん中がない世界~境界線のあいまいな二元性をめぐって

この世界には、「真ん中」があるものと、ないものがある。 たとえば、位置や距離みたいに、はっきり測れるものには中点がある。 右と左の真ん中はゼロ、北と南の真ん中はは赤道。 これは物理や数学でちゃんと定義できる「真ん中」だ。 でも、世の中のすべてにそんな中点があるわけじゃない。 光と闇 光を弱めれば闇に近づくけど、「光と闇の真ん中」っていう状態はない。 そこにあるのは「薄暗い」とか「ほんのり明るい」みたいなグラデーションで、感覚の領域だ。 生と死 心臓や脳が止まったら医学的には「死」。 でも哲学的に、生と死の間に”真ん中”があるって言われると怪しい。 昏睡や仮死は中間じゃなくて、どっちかに寄っている状態にすぎないと思う。 秩序と混沌 エントロピーで測れるけど「秩序と混沌の中間」って数値じゃ表せない。 そこにあるのは「安定して退屈」「不安定だけど活気ある」っていう、人間の感じ方だけ。 音と無音 音量を半分にしても、人の耳には中点に聞こえない。 静けさにはただの減衰じゃ測れない質がある。 愛と憎しみ よく「愛の反対は憎しみ」って言うけど、ほんとは無関心なんだと思う。 それは愛と憎しみの”真ん中”じゃなくて、まったく別の場所に立ってる感じ。 真実と虚偽 「真」か「偽」かって論理学ではきれいに割れるけど、現実はグレーだらけ。 真実っぽい嘘もあるし、嘘っぽい真実もある。 ここにあるのは「混ざりあい」だ。 善と悪 文化や時代で基準が変わるから、「善悪のど真ん中」はきめられない。 「半分善で半分悪」なんて行為も、人によって評価がバラバラになる。 そういえば、ウィザードリイってゲームにはキャラの属性で善と悪の中間に中立ってのがあったけど……どうなんだろう?。 有と無 存在と非存在の間に”中間”があるのか?。 量子力学は「どっちでもなく、両方が同時」っていう奇妙な答えを出している。 自由と束縛 束縛を減らせば自由になるとは限らない。 自由の”真ん中”は、人の心理や制度の形によって変わり続ける。 時間の始まりと終わり 宇宙の始まりはビッグバン、終わりは熱的死かビッグクランチ。 ...

「ゴミ=無価値」の常識を疑う~分別が報われない社会の違和感

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道路では、レジ袋に入ったゴミがそのまま捨てられていて、カラスがつついて散乱している……そんな光景をよく見る。 もし、ゴミに価値があるなら、そう簡単には手放さないはずである。 分別すれば価値がある?……じゃあなんで無償でさせるの?……。 包装フィルムに印刷されたリサイクルマークを見ながらゴミの分別をしていると、なんか”都合よくやらされている”感が否めない。 そのときふと思った、ゴミに価値があれば、それはもう「ゴミ」とは言わないんじゃないかと……。 分別しないでゴミを捨てる人たち 「燃えるゴミの日だから、これも入れちゃえ」 そういって、ペットボトル、金属、紙くずを一緒にゴミ袋へ……。 多くの人が「分別はめんどくさい」「どうせ一緒に焼かれるんでしょ」と言い訳して、ルールを無視する。 でもそれは、「そのゴミには価値がある」と思っていない証拠だ。 もしそのゴミが現金に変わるなら、分別を「面倒」と思う人は一気に減るはずだ。 ポイ捨てする勇気 道端にたばこの吸い殻や空き缶、ペットボトルを捨てる人がいる。 本当は「悪いこと」だと分かっている。 でも、それでも捨てるのは、ある意味“勇気”が必要だ。 それは「自分が見られていない」と信じているか、「怒られても構わない」と開き直ってるかのどちらかだと思ったけど、単に「めんどくさい」もあるかもしれない……。 しかしその行為の裏側には、「これは価値がないもの」「どうせ誰かが片付けるもの」という、無意識の思考がある。 その人にとって、そのゴミは「存在しないも同然」なのだ。 食品容器や梱包材が高額で買い取られたらゴミはでない? もし、弁当の容器や段ボールの箱がリサイクル業者に持ち込めば100円で買い取られるっ世界だったら?……弁当の容器は10円かな……。 我々は今のように気軽にゴミを捨てられるだろうか。 現実には、プラスチック容器も、緩衝材も、袋も、原材料を作るにはエネルギーが必要だ。 にもかかわらず、「無料で捨てられる」「お金を払って捨てる」システムが常識になっている。 だから、人々はそれを無価値と見なし、簡単に手放してしまう……それらにもお金を払っているのに……。 価値があるものなら、大事にさ...