投稿

環境を変えるのがいちばん怖い

人は変わりたいと思っている。 それでも、多くの場合、環境は変えない。 なぜなんだろう……。 それは、今いる場所が楽だからではない。 不満があっても、苦しくても、今の環境には「予測できる痛み」がある。 どれくらい疲れるか。 どこで傷つくか。 どんな失敗をするか。 人はそれを、すでに知っている。 環境を変えるということは、予測できない痛みに飛び込むことでもある。 うまくいかないかもしれない。 今より、もっと悪くなるかもしれない。 考え方も、価値観も、人間関係も、すべて作り直しになる。 だから人は、「今のまま」を選ぶ。 それは甘えではない。 人間として、ごく自然な防御反応だと思う。 たとえば、ブラックだと分かっている仕事でも、すぐに辞められない人は多い。 毎日つらくて、理不尽だと感じていても、やめた後の生活が想像できない。 次の職場は見つかるのか。 収入は下がらないか。 人間関係は今より良くなるのか。 それらはすべて、「分からない不安」だ。 一方で、今の職場のつらさは、もう分かっている。 どこが苦しくて、どこまで耐えればいいかも、ある程度は分かっている。 だから人は、つらいと分かっている環境を、選び続けてしまう。 人はなぜ今の場所を選び続けるのか 人は、今の環境に不満があっても、そこに留まることを選ぶ。 それは、変わりたくないからではない。 むしろ、変わった先の自分を想像できないからだと思う。 環境を変えるということは、それまでの見通しを一度、手放すとことでもある。 評価の基準は変わり、人間関係も作り直しになり、自分が何者なのかも、最初から説明し直さなければならない。 考え方は、環境の中で形づくられる。 だから環境が変われば、今まで正しいと思っていた考え方が、通用しなくなることもある。 それは成長でもあるが、同時に大きな不安でもある。 人が今の環境を選び続けるのは、楽だからではない。 「自分でいられる範囲」を、できるだけ守ろうとしているからだと思う。 外から見れば、それは停滞に見えるかもしれない。 けれど、変わらない選択にも、意味がある。 人は、耐えられる範囲でしか、選択を変えられないのかもしれない。 変われないことを責めなくていい 人は、変わりたいと思っている。 それでも、変われないことがある。 それは、意志が弱いからでも、努力が足りないからでもない。 人は、自分が...

努力は本当に平等なのか?

ある時期まで、オリンピックが好きだった。 開催が近づくとワクワクして、始まるとテレビを見るのが楽しみだった。 世界中の選手が、努力のすべてをぶつけ合う舞台。 そう思っていた……。 けれど、世の中の仕組みを少しづつ知るにつれて、見え方が変わっていった。 オリンピックに出場できる人間は、ただ努力した人ではない。 幼いころから協議に打ち込める環境があり、時間があり、お金があり、支えてくれる人がいた人間だ。 つまり、すでに「環境に恵まれた人たち」だけが集まった場所でもある。 その中で、さらに努力を重ねた人たちが競い合っている。 もし、環境の条件が本当にすべて同じだったとしたら、世の中には、今よりもっと「すごい人間」がいくらでもいるのだと思うようになった。 たとえば、今日の食事さえ満足に取れない子どもが、オリンピック選手と同じ環境で育っていたら、もしかすると、余裕で金メダルを取るような人間だったかもしれない。 そう考えてしまってから、オリンピックは、努力の祭典というよりも、人類があまり触れたくない部分を、きれいに覆い隠すための祭典のように見えるようになった。 それが正しいとか、間違っているとか、そういう話ではない。 ただ、そういう見方が一度できてしまってからは、以前のような気持でオリンピックを見ることができなくなってしまった。 努力は、本当に平等なのだろうか……。 努力を語れるのはどんな人間なのか 努力は美しい言葉だと思う。 誰もが否定しにくく、正しそうに聞こえる。 だからこそ、簡単に使われる。 だが、努力という言葉を使えるのは、本当はどんな人間なのだろうか。 少なくとも、努力するための環境が与えられていた人間だ。 時間があり、失敗しても立ち直れる余地があり、挑戦を許される立場にいた人間。 そうした条件を、無自覚なまま持っていた人ほど、努力を「本人の問題」として語りやすい。 逆に言えば、努力する以前に、生きることだけで精一杯な環境にいた人間には、努力という言葉そのものが、遠く感じる。 それでも社会は、結果だけを見て、努力したか、しなかったかを判断する。 環境の話を飛ばして……。 オリンピックが、環境をクリアした人間同...

人の考え方は環境で簡単に変わってしまう

環境とは、地球環境のことだけを指すのではない。 自分の周りにあるすべての状況、その集合体のことである。 例えば、お金に困っている人は、「世の中はお金が全てだ」と感じやすい。 一方で、生活に困らない程度の蓄えがある人は、「世の中はお金が全てじゃない」と思っていることが多い。 では、世の中はお金が全てではないと思っているのなら、なぜ全財産を放棄して、お金に困っている人と同じ状態になろうとしないのだろうか。 ……その答えは、意外と簡単だと思う。 それは、その人が置かれている環境が、そう思わせているからである。 お金がある環境にいれば、「お金がすべてじゃない」と言える。 しかし、もし何かの拍子で、ある日突然、無一文になったとしたらどうだろう。 その考えは方は、きっと簡単にひっくり返る。 そしてまた、「お金が全てだ」と思うようになるだろう。 環境を変えずに考え方だけ変えるのは難しい よく「考え方を変えれば人生が変わる」と言われる。 しかし、それは半分しか正しくない。 なぜなら、考え方は環境から生まれるものだからだ。 お金がある環境にいながら、「お金がなくても大丈夫な考え方」を持ち続けることはできる。 だが、それはあくまで”仮の考え”でしかない。 実際に無一文になった瞬間、その考えは現実に耐え切れず、あっさり崩れる。 つまり、人は環境を変えずに、考え方だけを本気で変えることはできない。 先に変わるのは、いつも環境だと思う。 考え方は、その後から「仕方なく」ついてくる。 だから、誰かの考え方を見て正しいとか、甘いとか、間違っているとか、簡単に判断することはできない。 その人が、どんな環境に置かれているのかを知らない限り。 その考えは本当に自分で選んだものだろうか 人はよく、「自分はこう考えている」と言う。 まるでその考えを自分の意志で選び取ってきたかのように。 しかし、本当にそうだろうか。 もし、生まれた場所も、育った家庭も、持っているお金も、人間関係も、すべて違っていたとしたら。 それでも、同じ考え方をしていただろうか。 おそらく答えは、違うと思う。 自分の考えだと思っているものの多くは、実は、環境の中で「そう考えるしかなかった結果」にすぎない。 それでも人は、その考えを「自分らしさ」だと信じる。 なぜなら、そう思わな...