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元気が出た瞬間を大切にする

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元気があるということは、人生にとって非常に有益なことだと思う。 元気が出たと感じた瞬間は、まるで心に光が差し込むような感覚だった。 疲れやストレスで沈んでいた気持ちが、ふとしたきっかけで軽くなり、前向きな気持ちに切り替わっていく。 友人との何気ない会話や、美しい景色に触れた瞬間、小さな成功体験があったときなど、さまざまな場面で元気が湧いてくる。 そのたびに、自分にはまだまだやれる力があるんだって実感し、再び頑張ろうという気持ちが強まっていく。 このように、元気が出る瞬間は意外なところに隠れている。 大切なのは、どんなに忙しい日常の中でも、自分をリセットする時間を大事にすること。 そして、ポジティブなエネルギーをもらえるような瞬間を見逃さないようにすること。 それが、明日への活力となり、さらに充実した日々を送るための原動力になる。 リセットする時間を設ける 日々の生活や仕事で蓄積した疲れやストレスを解消し、心身をリフレッシュさせるための時間を設ける。 現代社会では、忙しさに追われてしまいがちだが、自分のペースを取り戻し、リフレッシュするためには、このリセットする時間が非常に重要である。 リセットする時間の具体的な例として、次のようなものが挙げられる。 休息や睡眠 十分な休息や質の良い睡眠をとることて、体力と精神力を回復させる。 趣味の時間 自分が好きなことに没頭する時間は、ストレスを軽減し、心を豊かにする。 運動や散歩 体を動かすことで気分転換を図り、リフレッシュ効果を得ることができる。 瞑想や呼吸法 短い時間でも、心を落ち着ける瞑想や呼吸法を行うことで、心のバランスを整えることができる。 自然に触れる 公園や自然の中で過ごす時間は心を癒し、リフレッシュするのには最適である。 友人や家族との時間 大切な人たちとの楽しい時間を過ごすことで、心が安らぎ、エネルギーが湧いてくる これらの時間を意識的に持つことで、忙しさの中でも自分を見失わず、元気を取り戻すことができる。 投稿:2022.12.25 日曜日

人生最後の日を思い描くことで見えるもの

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ふと考えたことがある……。 今日が、自分の人生の最後の日だと何者かに告げられた時に、いったいどんなことを思うんだろうと……。 ほとんどの人間は自らの人生を後悔するらしいけど、自分はいったいどんなことを後悔するんだろう……。 たぶん、誰もが思うようなことだと思う。 やりたいと思っていたけどやれなかったこと、もしくは、いつかやめようと思っていたけどやめられなかったこと、だと思う。 ああしておけばとかこうしておけばとか、あんなことしなければとかこんなことしなければとか、いつもと変わらないことだと思う。 その日が最後なので考えられるのは過去のことだけなのに、もしかしたら現状をかえられたのではないのだろうかとか、一生懸命考えてしまうと思う。 もう後が無いからどうしようもないのに……。 そしてその日もいつもと同じよに、あっという間に時間は過ぎてしまうだろう……。 常日頃から人生最後の日に後悔しないようにいくら頑張っていたとしても、人間には欲があるので後悔しないようにというのは不可能な気もする。 なので、人生の最後の日だって、いつものようにしていればいずれ時間が来てしまう。 人間の人生なんてそんなものだと思う。 そんな後悔とかよりももっと苦しいのは、絶望を感じることだと思う。 もし自分のこれまでの人生が、人間関係が良好で、有り余るお金があって、やりたいことが何でもできて、毎日幸福を感じながら生きてきたとしたら……。 それがもう一日限りで失われるとしたら……。 自分だったらその幸福を失う恐怖に耐えられない。 それが絶望というこの世で最も不幸なことだと思う。 だったら、なんだかんだ後悔したほうがよっぽどましなような気もする。 でも、もしかしたら、幸福な人生を歩んできた人間の中には、人生最後の日だと告げられた後でも、この世に生を受けたことに感謝しながら終焉を迎える人間もいるかもしれない。 自分もいつしか、そういう人間になりたいと心から願っている。 明日は我が身をつねに意識する いつか必ず自分の命が尽きるときがくる、生命体として生まれてきた以上、絶対に避けては通れない……。 それは、もしかしたら明日かもしれない。 そんなふうに思うようになったのは何年前だっ...

「心配事の9割は起こらない」は本当?逆に9割起こると考えて備えるべき理由

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「心配事の9割は起こらない」って聞いたことがあるけど……でも、残りの1割が実際に起こるかもしれないって考えると、おちおち寝てられないんじゃないの?。 👀「えっ、そりゃあそうだけど……でも、そのぐらいの確立しか起きないってことだから、必要以上に心配する必要はないってことじゃないの?」 でも実際、ゼロじゃないよね。 👀「まあ、確かに……ゼロではないね」 だったら、むしろ「心配事は9割起こる」って考えて、最悪のシナリオに備えたほうが良いんじゃないのかな?。 👀「確かにそうだね、”転ばぬ先の杖”は、あって困るもんじゃないからね」 徹底的な準備の必要性 最悪のシナリオを想定し、あらかじめ具体的な対策を立てておけば、いざというときにも冷静に動けるんじゃないかな。 👀「そうだね、たとえば自然災害、病気、仕事のトラブル、経済的不安……いろんなリスクに対して事前に備えるってことだよね」 そう、それに、可能性のあるリスクをリストアップして、それぞれに対するプランを用意しておけば、余計な不安を減らせると思うんだ。 👀「それって”心の保険”みたいなものだね」 心理的な安心感の向上 最悪を想定してきちんと準備しておけば、実際にそれが起きなかったとき、すごく安心できると思う。 👀「なるほど、心配してたことが現実にならなかったときの安堵感って大きいよね」 それに、いつも”備えてある”って感覚があると、普段のストレスも減るし、精神的に安定する気がする。 👀「ストレス対策にもなるってことだね」 現実的な視点と柔軟な対応 心配事が起きる可能性を現実的に捉えて、ちゃんと調べて、判断をすることが大事だと思う。 👀「情報収集だね、感情じゃなくて、事実に基づいて備えるのがポイントだよ」 それに、計画はひとつに絞らない方がいいかも、状況によって柔軟に変えられる準備が必要だよね。 👀「そうそう、プランA、プランB、プランCって感じで、複数の選択肢を用意しておくのが大事」 未来はひとつじゃない、だから、いろんなシナリオに備えておくことが安心に繋がると思うよ。 👀「”一本道”じゃなくて、”分岐だらけの道”だね」 過度の心配による影響の管理 ただし、常に最悪のことばかり考えていると、心が疲れてしまう。...

耳掃除の快感とリスク~適度なケアの重要性

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耳掃除が好きな人は多いと思う……もしかしたら、自分がそう思うから他人もそう思っているんじゃないかという思い込みかもしれないけど。 耳の中をきれいにすると、なんとなくだけど音がクリアに聞こえるような気がするし、気分もスッキリする。 それに、ちょっとした心のデトックスにもなる感覚があり、根こそぎ耳垢を取ってやるという意気込みにもつながる。 今回は、その耳掃除に気合を込めすぎて失敗したという話し、である。 以前は、耳かき専用の道具(小さいヘラのようなもの)を使っていたが、最近は使い捨てできる綿棒に変えている。 より清潔だし、手軽に使えて便利だからである。 ただ、綿棒にはひとつ不満があった。 白い綿棒だと耳垢が取れているのかどうか、いまいちよく分からなかったからである。 そこで「黒い綿棒なら耳垢が見えやすいのでは?」と思い、さらに「根こそぎ取れる」と評判のスパイラル型綿棒を使ってみることにした。 たしかに、黒い綿棒は結果がはっきり見えて満足感があったし、スパイラル型はよく取れる気がした。 しかし、その満足感の代償は意外と大きかったのである……。 数日後、耳の中に違和感を覚え、頭を傾けて軽く耳をポンポン叩いてみると、なんと、出てきたのはまさかの「かさぶた」だった……。 どうやら、綿棒で耳の中をぐりぐりしすぎて皮膚が傷ついてしまっていたようだ。 幸い、炎症などにはならなかったが「綿棒だから安全」と思い込んでいた自分を、少し反省しよう、と思ったのである。 後から調べて分かったのは、耳の中はとてもデリケートな場所であること。 そもそも、耳垢には、耳を守るという大切な役割がある。 しかも、耳垢は耳の構造上、自然と外に押し出されるようになっているため、無理に奥まで掃除する必要はないという……。 それでもムズムズする感覚があると、つい耳掃除アイテムを手に取ってしまうというのが人間というもののような気がする。 耳掃除はしないという選択肢もあるかもしれないが、自分にはそんな勇気はない。 耳は、音を聞くだけでなく、バランス感覚を保つなど、人間にとって非常に重要な器官である。 だからこそ、しっかりケアしたいという思いも分かるが、やりすぎは逆効果。 耳掃除はほどほどにして、どうしても気になる場合は耳鼻科での相談をおすすめする。 ちょっとした失敗談だが、少しでも耳掃除好きな方の参考...

【他人の評価】白い紙に黒い点と黒い紙に白い点

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紙の色に例えているのは自分から見た他人に対しての大雑把な評価である。 白い紙とは自分にとっていい人間を指し、黒い紙とは自分にとって嫌な人間のことを指す。 自分にとっていい人間にたまたま嫌なことをされるのが白い紙に黒い点が付くことで、自分にとって嫌な人間にたまたまいいことをされることを黒い紙に白い点が付くことである。 いい人間に嫌なことをされたり、嫌な人間にいいことをされたりした自分の心の状態を紙の色で表そうとしてるんだけど……。 実際には白い紙に黒い点があったり黒い紙に白い点があったりしても、そんなには気にならないと思う。 心の状態も同じで、いいと思っている人間に嫌なことをされたり、嫌だと思っている人間にいいことをされたりしても、人間にはいろんな側面があるのでそういうこともあるだろう、で済むと思う。 しかし、人間の心はそう単純じゃなかった。 人間の心はネガティブな状態が基本らしいので、いいと思っている人間から嫌なことをされたりして白い紙に黒い点が付いてしまうと時間の経過とともに黒い点が大きくなって不信感を抱いてしまったり、嫌な人間にいいことをされたりして黒い紙に白い点が付いても何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまい白い点はいずれ消えてしまう。 なぜこんなめんどくさい状態になってしまうのかを考えてみたら、原因は意識的に他人にレッテル貼っててしまっていたからである。 ただでさえめんどくさい人間関係をさらにめんどくさくしているだけだった。 こうなったら自分以外の人間は白と黒が混ざった灰色なんだと思い込ませることにした。 あらゆる人間は自分にとっていい人間かもしれないし嫌な人間かもしれない。 言動が信用できる人間かもしれないし信用できない人間かもしれない。 困ったときに助けてくれるかもしれないし見殺しにされるかもしれない。 勝手に自分で張ってしまった「あの人間はこういう人間だ」というレッテルのせいで心を煩わせているより、あらゆる人間に対しての紙の色の例えは灰色にする。 灰色=グレーというとなんか曖昧な感じがするけど人間はそんなもんだと思う。 人間関係をもっと楽にするためには他人に対してあまり関心を持たなくしてフラットな心の状態を維持することが重要だと思う。...

過去を後悔するより潔く諦めてみる

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「後悔先に立たず」という諺がある。 この言葉は、起きてしまった出来事を後から悔やんでもどうしようもないので、慎重に考えてから物事に取りかかった方が良い、ということを促す教訓を含んでいる。 この諺を考案した人間はもしかしたら、避けられない過ちを犯してしまい、その後悔から逃れられない人生を送っていたのかもしれない。 後悔しているときの感情を思い出すと……とても嫌な感じがする。 かけがえのないものを失ったりすると寂しく感じたり、取り返しのつかないことをやらかすと悔しく感じたり、何もしてなくて状況が悪化したりすると虚しく感じたり、あの時ああしていればとかこうしていればとかっていろいろ考えてしまい、挙句の果てに反芻が始まって夜も眠れない時もある。 不可能だと分かっていても、なんとか過去に戻ってやり直せないのか、なんてことまで考えてしまう。 どうしようもないのに……。 そうやって考えていたときに、ひとつだけ分かったことがある。 どうしようもないことはどうすることもできないので諦めるしかないってことが……。 もしかしたらなんとかなったんじゃないか、なんていつまでもくよくよ思ってしまうのも人間の欲がはたらいているせいなのかもしれないけど……。 欲を払拭して過去を変えることなんてできないとキッパリと割り切ることができれば、もしかしたら人生をもっと楽に送れるのかもしれない……。 そして、過去を振り返って嫌な気分になるより未来に希望を持って良い気分になっていたほうがやる気も増すような気もする。 もし、今この瞬間が楽しくて嬉しくてワクワクしていて将来が希望に満ち溢れていたら、仮に過去の失敗やどうすることもできなかったことを思い出してしまったとしても後悔するという感情は最小限に抑えられるかもしれない。 過去の出来事は捉え方によって変えることができると聞いたことがある、しかし、その時の心の状態で変わってしまうので期待できない。 そんなことより、人間の人生はかけがえのない瞬間の連続でできている、次の瞬間は未来からしかやってこない。 戻ってこない過去に時間を使うより、やって来るかもしれない未来に、希望を持って想い描いていたほうがいいと思う。 イラスト yo...

気分を良くして前向きに生きる

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毎日変化するもののひとつに、心の状態、つまり気分がある。 この気分は、体調や環境、過去や未来のことを考えている時、さらには目の前にいる人間の言動ひとつでも変化してしまう……このように非常に厄介なものである。 この気分の厄介なところは、仮に同じような物事を考えたり思い出したりしたとしても、その時の気分の良し悪しで、その物事の捉え方が異なってしまうことである。 気分が良ければプラス思考になり、過去の失敗や嫌な出来事を糧にして未来に希望を託そうとする。 しかし、気分が悪ければマイナス思考になり、過去の失敗や嫌な出来事に縛られ未来を不安で包んでしまう。 気分が良ければポジティブになり、やる気が湧いていろんなことに挑戦したくなるが、気分が悪ければネガティブになり、やる気を失い、行動が制限されてしまう。 これは日常生活にも支障をきたしてしまうし、なによりもやる気が喪失するのは大問題である。 せっかくの人生なんだから、良い気分の状態を毎日持続して、有意義な時間を過ごしていきたいと思う。 しかし、この気分の厄介なところは自分でコントロールするのが難しいことである……でも、意識して変えていくことはできるはずである。 それにはまず、自分の気分は自分でなんとかするように意識する、なるべく毎日の気分をフラットな状態か、あるいは良い状態に保つよう心がける。 体調が原因で気分がすぐれないと思うなら規則正しい生活を心がけたり、体調管理を意識して生活する。 早寝早起きで充分な睡眠を取ったり、暴飲暴食を控えるなどして体に負荷をかけないことを心がける。 環境が原因で気分がすぐれないと思うなら環境を整えたり、変えたりする。 職場なら気分を害する人間とは距離を取る、もしくは転職するなどを考慮する。 人間関係が原因で心を病んでしまうと気分をコントロールするのはかなり難しくなってしまう。 不安や悩みが原因で気分がすぐれないと思うなら本を読んで先人の知恵を借りたり、信頼できる人間に相談したりする。 そうやって上手く気分をコントロールしてプラス思考を維持できれば、やる気がでて有意義な人生を送れる...

幸せの本質~生命維持と満足感の関係

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幸せの感じ方は人それぞれ違うと思うが、その根底には、生命を維持するために必要な基本的欲求があると思う。 人間が幸福を感じる瞬間の多くは、実はこの基本的欲求が満たされたときに訪れるのである。 例えば、人間の体はその大部分が水分で構成されており、水分が不足すると、喉の渇きとして体から信号が送られる。 この状態で水を飲むと、ただその行為だけで深い幸福感を得られる。 これは、我々の体が生命維持に直結するニーズに敏感に反応し、そのニーズが満たされたときに強い安堵感と幸福感を感じるようにできているからである。 食事も同様に、我々にとって大きな幸せをもたらす要素である。 日々の食事ではそのありがたみを感じることが少ないかもしれないが、空腹時や長い間食べられなかった後に食事をとると、その一口がとてつもない満足感をもたらす。 これは、体がエネルギーを必要とし、その供給が不足することで危機感を覚えるためである。 この危機が解消される瞬間、我々は「生きている」という実感と共に、深い幸福感を得る。 さらに、体温調節も幸福感に大きく影響する。 暑い日に涼しい場所に移動した時や、寒い日に温かい場所に入った時、我々は強い安堵感と共に幸福感を感じる。 これもまた、生命を維持するために体が快適な状態を保つことが重要であり、そのバランスが取れた時に感じる幸福感である。 こうして考えると、我々が日常生活で感じる幸福の多くは、生命維持のために必要な基本的欲求が満たされた時に生じるものであり、これが幸福の本質だと思う。 しかし、これらの基本的欲求が満たされると、我々は次第にその状態を当たり前のものと感じ始め、さらなる欲求を求めてしまう。 何かしらの理由で手に入れた物や、何かを成し遂げた達成感、何かしらに束縛されない自由といった幸福感は、身体的な欲求を越えたものを手に入れることで幸福を感じることもあるが、こうした幸福感は一時的なものであり、時間が経つと覚めてしまうことが多いのも事実である。 ...

自由と心の解放

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人生は「自由」という言葉で語られることが多くある。 しかし現実において、その自由は簡単に手に入るものではない。 自分の好きなことをして生きる――理想的な姿に見えるが、実際には経済的な制約や社会的な責任が伴い、思い通りに進むことは今の世の中では難しいと思う。 そして、 自由に生きるとは、自分の行動や選択に対する責任を引き受ける覚悟があるということ。 その意味で、自由は何もせずに得られる状態ではなく、努力や条件のもとに成り立つものだと言えるかもしれない。 自由の現実と制限 「人は生まれながらにして自由である」と聞いたことがあるが、現実はそう単純ではない。 我々は家庭、教育、社会のルール、経済的状況など、さまざまな枠組みの中で生活しており、完全に自由な状態というのは非常に限定的である。 たとえるなら、鳥が籠の中で飛べる範囲が限られているように、我々の自由もまた、社会的・人間関係的な枠に縛られていることが少なくない。 このような制約が積み重なった結果、心の余裕を失い、ストレスを抱える人も増えているように感じる。 心の自由と人間関係 多くの悩みの原因は、人間関係にあるとされている。 これは決して他人のせいというわけではなく、我々の「心のあり方」にも関係している。 なので、外部の状況や他者を思い通りに変えることは難しくても、自分の感じ方や考え方は少しずつ変えていくことができるかもしれない。 心の自由を得るためには、まず自分の内面に目を向け、何が自分を縛っているのか、どんな価値観に影響されているのかを見つめ直すことが重要だと思う。 自由を取り戻すためのステップ 解釈を変える 同じ出来事でも、その受け取り方によって心の状態は大きく変わってくる。 否定的な見方ではなく、肯定的に捉えることで、ストレスを減らし心の余裕を保つことができる。 少しずつでも「見方を変える練習」をすることが、心の柔軟性につながると思う。。 ・関連記事   ものの見方を変えて考え方を変えてみる 思い込みを手放す 「こうでなければならない」「自分はこうあるべきだ」といった固定観念が、自分自身を縛っていることがある。 それらの思い込みに気づき、ひとつずつ手放していくことで、より自由な視点を持てるようになる。 ・関連記事   安全な車間距離と互いの「べき思考」 欲望を減らす 必要以上の欲望は...

つついた先に見えたダンゴムシの真実

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ある日、除草作業の休憩中、ふと地面に目をやると、目の前にダンゴムシが現れた。 なぜだか、子供の頃のように、つついてみたくなってしまったのである。 さっそく小枝を拾って、ダンゴムシを軽くつついてみると、約束通り丸まってくれた。 やっぱりこの反応が楽しい。 まるで自分の中に、何かがまだ子供のまま残っているような感覚になった。 そして、そんなのんびりした気持ちでいると、ふと疑問が湧いてきた。 ダンゴムシって、あの幼虫みたいな姿で、これで完成形なんだろうか?とか、 それとも、これから何かに変身する途中なのか?とか、 昆虫だったら、いったんサナギになって羽化して……みたいな段階があるけれど、ダンゴムシにもそういう過程があるんだろうか?とかって……。 そういえば、子供の頃は毛虫を見つけるたびに「これはチョウになるのか、ガになるのか?」と不思議だった。 あの毛だらけのやつ、なんだか毒がありそうで近づきたくないけれど、意外とあれがガの幼虫だったりする。 ガの毛虫ってフサフサしてて、見た目も少し怖い。 一方で、チョウになる毛虫って、ツルツルだったりスベスベだったりする。 あの違いは子供心に不思議で、当時は「毛深いやつは危険」みたいなイメージを勝手に持っていた。 そんな毛虫たちと同じように、ダンゴムシも何かに変身するのかな?、それとも、このまま丸まって生きていくタイプなのか?……。 さらには、なぜか「風の谷のナウシカ」の王蟲(オーム)を思い出してしまった。 あの巨大で迫力のある王蟲、見た目は完全に巨大ダンゴムシじゃないか……と思っていたけれど、あれのモデルって本当にダンゴムシなのかな?……。 そんな疑問が次々と浮かんできて、休憩時間中に脳内がちょっとした昆虫図鑑みたいになっていた。 どうしても気になったので、スマホで調べてみることにした。 まず、ダンゴムシ。 名前に「ムシ」とあるけれど、実は昆虫じゃなくて、エビやカニの仲間らしい。 「甲殻類」という分類で、海にいた生き物が進化して陸に上がってきたということだ。 ……恥ずかしながら、今まで完全に虫の一種だと思っていた。 で、成長のしかたも昆虫とはまったく違う。 チョウやガのように「完全変態」――つまり、卵→幼虫→サナギ→成虫という劇的な変身はしない。 代わりに、脱皮を繰り返して少しずつ大きくなっていく。 つまり、...

返報性の原理を意識して人間関係を円滑にする

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人は何かをしてもらったり、物をもらったりすると、それに対して何かお返しをしたいと感じることがある。 これは「返報性の原理」と呼ばれる心理作用で、多くの人に共通する本能的な反応である。 この原理を知っておくと、人間関係におけるちょっとした気づきや工夫ができるようになる。 例えば、職場で同僚にコーヒーを差し入れたとする。 すると相手は、次に自分も何か返そうという気持ちになるかもしれない。 このような自然な循環が、良好な人間関係をつくるきっかけになるのだ。 ただし、この返報性の強さは、個人の性格や文化、状況によって異なる。 例えば、ある文化では返礼が非常に重要視されるのに対し、別の文化ではあまり重視されないこともある。 日本では「お返し文化」が根強いが、海外では「ありがとう」の一言で済むことも少なくない。 誰しも、返報性の原理を感じた経験はあると思う。 親切にされたり、物をもらったときに「何かお礼をしなくては」と思ったことがあるのではないだろうか。 この原理は人間関係を良好にするために役立つが、返礼をするときは相手が本当に喜ぶかどうかを考えることが大切だと思う。 たとえば、高価なものを返せばいいというわけではなく、相手の好みやタイミングを考えることが重要である。 手書きのメッセージや、相手の好物を覚えておくといった、ささやかな気配りのほうが心に残ることもある。 恩着せがましいお返しは逆効果になることがあるので、真心からの返礼であれば、人間関係はより良い方向に進むと思う。 ただし、この原理が全ての人間関係の問題を解決するわけではなく、コミュニケーションの質や価値観など、他の要素も関係性に大きく影響を与える。 返報性の原理を活かすには、まず自分から何かを与える姿勢が大切だと思う。 日常生活でさりげない親切や気配りを示すことで、相手は自然と「お返しをしたい」と思うようになるのでは……ないだろうか。 これは物質的なものに限らず、時間や感謝の言葉、共感といった非物質的なものにも当てはまる。 たとえば、誰かの話を丁寧に聞いてあげることや、悩みに対して共感を示すことは、お金では買えない価値のある行為である。 特に、相手の気持ちや状況に寄り添い、共感を示すことは、相手に「自分は理解されている」という安心感を与え、信頼関係の構築に貢献する。 しかし、返報性を意識し...

自転車の動きには細心の注意を払わなければならない

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比較的交通量の少ない住宅街を車で走行していた時の話。 この道路には車道よりちょっと高くなっている歩道が設けられている。 少し先の左前方の歩道に自転車が走行しているのを発見した。 自転車は路側帯ではなく歩道を走行していたので、こちらが別段注意していなくてもそのまま自転車の横を通り過ぎることができると考えていた。 しかし、この先にある交差点の左手前にあるコンビニに買い物に行く途中だったので、途中で追い抜いてもコンビニの駐車場に入る時、追い抜いた自転車が後ろから来るのを気にかけながら左折しなければならない。 それよりも自転車がコンビニの横を通り過ぎたのを確認してから左折したほうが良いと思ったので減速することした。 減速してからも自転車の動きを見ていたその時、なんと、自転車はちょっと高い歩道から右側に下りて車道に侵入、目の前を横切り反対側の歩道に行ってしまった……。 あぶなかった、もう少しで接触事故を起こすところだった。 驚いたのは、こちらが自転車を発見してから反対側の歩道に行くまでに、その自転車の運転者はいちども後ろを振り返らなかったことである。 いちども、後方確認をしなかったのである。 自分が自転車を運転していた場合、後ろから車が来るかもしれないので追突されないように後方確認をするのが当たり前だが、それが当たり前じゃない人間もいる。 あのまま減速しないで走行していたら間違いなく接触事故を起こしていたと思うと……。 そのときは事故んなくて運が良かったという安堵感よりも、後方確認もせずに車道に侵入し、ヒヤッとさせた自転車の運転者へ対しての怒りでいっぱいになりそうになったが、いつものようにすぐに頭を切り替え冷静になるように自分に言い聞かせた。 世の中ではこんな感じになった時、事故につながらなくて良かったと思うよりも、危険な行為をされた、という怒りのほうが優先されてしまって居ても立ってもいられなくなり煽り運転等に発展していくのかもしれない。 車の運転中にイラッとしたときは世の中にはこういう人間もいるんだ、と理解してその事柄を俯瞰してみるように心がけている。 あとは、自分の当たり前が必ずしも他人の当たり前じゃないことを意識するようにしている。 それと、他の自...

「羨ましい気持ち」に振り回されないための考え方

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どうして人間には、こんなにも多様な感情があるのだろうか?……この問いは、感情がコロコロと変わるたびに、ふと頭をよぎる。 過去を振り返るときも、未来を思い描くときも、そして今この瞬間ですら、感情は理由もなく揺れ動いている。 それが時に面倒で、厄介で、煩わしく感じることがある。 特に厄介なのは、ふと他人を羨ましく思ってしまうとき……。 あの人の成功、あの人の才能、あの人の幸せそうな様子。 そういったものを目にした瞬間、せっかく保っていたやる気が一気に削がれてしまうことがある。 この感情の正体は「比較」だと思う。 他人との比較から生まれた感情は、気分や状況によっていろんな顔を見せる。 気持ちがポジティブなときなら、「あの人はあの人、自分は自分」と自然に思えるし、羨ましさを憧れに変えて、「いつか自分も」と前向きになれることもある。 でも、ネガティブな気分のときは違う。 羨ましさが嫉妬に変わり、怒りや憎しみへと変化、それが重たくのしかかってくる。 そしてもし、それが自分の苦手な相手だったり、「自分より上」と感じる存在だったりした場合には、、劣等感にまで発展してしまう。 そうなると、心がどんよりと重くなって、何をする気にもなれなくなる。 ――やる気ROST。 「もし自分があの人のような環境で生まれていたら」「もっと見た目がよければ」「運があったら」……そんな”もしも”を想像しはじめると、虚しさばかりが募ってくる。 けれど、ネガティブな感情がすべて悪者というわけではない。 不安や嫉妬が、自分の弱点や本当課題に気づかせてくれることもある。 その気づきが、成長のきっかけになることもある。 だから、まずは「そう感じてしまう自分」を否定しないこと。 感情を抱え込むのではなく、正直に受け止める。 それが第一歩。 比較だって、上手に使えば役に立つ。 自分の目標がはっきりしたり、やる気の火種になることもある。 ただし、無理やりポジティブに変換しようとするのは危険。 無理に飲み込んだ感情は、いずれ別のかたちで吹き出してしまうことがあるからだ。 感情は否定せず、冷静に見つめ直す。 たとえば、他人の成功を「自分の目標」として捉え直すことで、自分がこれからなにをすべきか、道筋がはっきりしてくることもある。 それでもどうしても羨ましさばかりが心に残ってしまうなら、他人との接点を...

変わらない他人と変わるのが難しい自分

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人間関係をよくするための定番のアドバイスとして「他人は変えられないから、自分を変える」という言葉をよく聞く。 正論に見えるし、確かにその通りだと思う人も多いだろう。 実際、他人の性格や行動を根本から変えるのは難しい、ていうか不可能である。 過去に、何度注意しても同じことを繰り返す人がいて、心をすり減らした経験がある。 一時的には改善したように見えても、時間が経つと元に戻ってしまう……。 「また同じことを言わなきゃいけないのか」と思うたびに、精神的な疲労が積もっていく。 そして、その経験から学んだことがある。 「こうしたら普通は気づくだろう」「自分だったらこうするのに」――そうした思いは、すべて自分の価値観の中で他人を測っているにすぎなかったということに。 他人も同じように考えてくれるはず、という前提がズレていたのだ。 それからは、今度は自分を変えてみようと努力してみることにした。 怒りを抑えて接し方を変えたり、考え方を柔らかくしたり、相手の立場を想像してみたり。 けれど、思った以上に「自分を変える」こともまた、簡単なことではなかった。 気を抜けばすぐに元に戻るし、本質的な部分は変わらないまま、表面だけ取り繕っているような感覚になることもある。 結局、身につけたのは「ダメージを最小限に抑えるテクニック」のようなものだった。 自己改善というより、消耗を防ぐための自己防衛。 本当に変わったのかと問われれば、答えに詰まってしまう。 それでも、人は変われる可能性を持っていると思う。 ただし、それには強い意志と、適切なサポート、そして多くの時間が必要になる。 そして、毎日同じストレスにさらされながら「自分を変えよう」とするのは、やはり限界がある。 だからこそ思い出しておきたい。 「自分を変えること」がすべての答えではないということ。 もし今いる環境が心にとって重すぎるのなら、「場所を変える」という選択肢も持っていていい。 環境が変われば、考え方も、感情も、行動も変わる可能性がある。 学校、職場、家庭――どこであっても、今の環境がすべてではない。 「ここでがんばらないといけない」と思い詰める前に、一歩引いて周りを見渡してみる。 自分を責め続けるより、少しでも心が軽くなる方へ進んだほうが、結果的に人間関係もうまく回り出すことがある。 人は簡単には変われない。 でも...

夜更かしをやめただけで人生がちょっと動き出した話

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夜に寝床につくときにはいつも「朝なんて来なければいい」と思っていた。 特に日曜日の夜や連休最後の日の夜などは……。 仕事の日はギリギリまで寝て、休日は午後に起きるのが当たり前……最悪、夕方まで寝ていたこともある。 そんな人間が今は早起きしている。 いったい何があったんだろう……自分のことなんだけどね……。 結論から言うと、「早く寝るようにした」――ただそれだけで、朝に自然と起きられるようになった。 でも、長年染みついた夜更かしの習慣を変えるのは正直、簡単じゃなかった。 朝は時間に追われてバタバタ、忘れ物だらけだったあの頃。 車の鍵を忘れたり、お弁当を忘れて外で昼食……財布を忘れて、いつも買ってた缶コーヒーすら買えないことも。 準備していたつもりでも、寝坊助は忘れるときは忘れる。 準備云々の問題じゃなかった。 そして休日になると、「寝ていたい」という誘惑にあっさり負ける。 目が覚めても、雨の音が聞こえたらもう一度布団にもぐる……あの二度寝の気持ちよさはほんとに最高だった。 でも、こんなにも朝が苦手な原因は実はたった一つ、「夜更かししていただけ」だった。 テレビをダラダラ流し見、ゲームの続きが気になる、マンガを読み始めると止まらない……自由時間の誘惑は多すぎる。 でもその自由のツケが翌朝に回ってくる。 「ちょっとくらい寝るの遅くなっても大丈夫でしょ」――この気の緩みが、次の日の体調と気分を地味に崩していく。 でも今は、なるべく早く寝るようにしている。 たまに寝床でスマホをいじってしまうこともあるけど、起きる時間は固定。 「やる気を出して人生を変えるなら、まずは朝から」って思ったら、眠いなんて言ってられなかった。 それに、「寝坊助と有意義な人生には互換性がない」って本気で思った。 早起きするようになって感じたこと――たくさんあるわけじゃないけど、「これはよかったな」と思えることは確かにある。 メリットだと感じたこと 朝日がきれい 早起きすると、まず朝日が見られる。 これが意外と良くて、世界ってこんなに美しかったんだなって思ったりする。 朝日を浴びると、セロトニンっていう神経伝達物質が脳から出てきて、やる気スイッチを押してくれるらしい。...

「どうでもいい」という言葉が人間関係を壊す理由

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世の中には「どうでもいい」という言葉がある。 似たような表現として「どっちでもいい」や「何でもいい」という言葉もあるが、これらは相手に選択の自由を与えているようでいて、同時にその選択を放棄するようなニュアンスを持っている。 つまり、「自分には関係ない」「選ぶのが面倒だ」伝えているようなものだ。 もちろん、これらの言葉が必ずしも悪いわけではなく、時には相手への気遣いや優しさとして使われることもある。 しかし、言葉のニュアンスが伝わらなかったり、誤解を招いたりすることもある。 自分でも無意識に使うことがあるが、他人に言われると腹が立つことも多い。 ということは、自分が使っているときも相手をイライラさせているのかもしれない。 だからこそ、これらの言葉を使うときは慎重になる必要がある。 「どっちでもいい」 腹が立つレベル:💢(怒りレベル1) 二択のときによく聞く言葉で、「どちらも同じくらい良い」という場合もあれば、「どちらにも興味がない」場合もある。 相手の意図が見えにくいため、少しイライラすることがある。 しかし、こちらに選択の自由を与えてくれているとも取れるので、そこは大目に見るのが得策だ。 もし相手が「どっちかに決めてほしい」と思っているのなら、面倒でも選んであげるのが無難だろう。 ただし、後から「やっぱり違うほうがよかった」と言われると、さすがに腹が立つ。 その時は「どっちでも同じだから」と軽く受け流すのがいい。 「何でもいい」 腹が立つレベル:💢💢💢(怒りレベル3) 特に「何を食べる?」と聞いたときに返ってくる言葉。 「何でもいい」と言われるとこちらが選ぶしかなくなる。 しかし、選んだ後に「本当は違うものが食べたかった」と言われると、理不尽さに怒りを覚える。 「何でもいい」と言うなら、本当に何を出されても文句を言わないのが筋だが、そうでないことが多いのも現実だ。 この状況を避けるためには、「何でもいい」と言われる前に、いくつかの選択肢を提示して選ばせるのが効果的だ。 手間はかかるが、人間関係の摩擦を減らすためには必要な対策かも知れない。 「どうでもいい」 腹が立つレベル:💢💢💢💢💢(怒りレベル5)...

食肉加工工場で働いていた時に感じていた不満

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食べるということは人間にとって生きていくためになくてはならない大切な事柄のひとつ。 そのため、食べ物に関する仕事は世の中に多く存在している。 自分も以前、食肉加工工場で働いていたことがある。 食肉加工工場とは、牛肉、豚肉、鶏肉を原料に加工し、商品化する工場である。 ハムやソーセージ、味付き肉、スライスしてパック詰めするだけのものなど、さまざまな商品が精造されていた。 ここでは、食肉加工工場で働こうとしている方に知ってほしい、自身の経験や感じたことをまとめてみた。 勤める会社の規模によって違いはあるかもしれないが、多くの工場で共通する部分があると感じている。 着替えるのが面倒 工場に入る前には、会社規定に従って作業着に着替えなければならない。 上下の作業着、長い帽子、毛髪混入防止ネット、マスク、長靴、手袋、そしてエプロンも必要である。 また、アクセサリーなどの小物は異物混入を防ぐためにロッカーに置いておく必要がある。 着替えが習慣化すれば気にならなくなるが、面倒に感じることもある。 仕事が忙しい 作業は単純なことの繰り返しだが、とても忙しく感じた。 早いスピードで動く機械を担当すると、ついていくので精一杯だった。 手作業も忙しかったけど、機械の操作も同様に忙しかった。 全てが忙しかったのを覚えている。 大きな会社で自動化が進んでおり、役割分担が明確であれば、忙しさも異なるかもしれないが、それでも大変さは残ると思う。 危険がいっぱい 食肉を加工する際には、切ったり、熱を加えたり、挽いたりするする作業がある。 包丁やスライサー、チョッパー、茹でる窯など、工場内には危険な道具や機械がたくさんある。 作業中はもちろん、機械の洗浄時にも気を抜くと簡単に怪我をしてしまうため、常に注意が必要だった。 衛生管理は厳しい 食品を扱うため、衛生管理は厳しく行われていた。 抜き打ちで細菌検査が行われるため、作業場所は常に清潔な状態を保たなければならない。 日常的に清掃を行い、衛生管理に務めていたため、検査で問題が発生することはなかったと思う💧……。 人間関係は複雑 どんな職場でも、人数...

自己意識とは何か?~存在すること自体が不思議だった話

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これまでの人生の中で、自分は「何か不思議な体験をしたことがあるのか?」……ふと、そんなことを考えてみた。 でも正直なところ、「これぞ不思議!」と呼べる出来事には、いちども遭遇したことがない。 たとえば、買い物に行って、目当てのものを買ったつもりが、家に帰って袋を開けたら全然違うものが入っていた――。 こういうのは「不思議」でもなんでもない。 ただの思い込み、勘違い、記憶違いだ。 人間の記憶や注意力なんて、案外いい加減なもの。 だからこういう小さなズレは、誰にでも起こり得る、ごく日常のひとコマでしかない。 じゃあ、「不思議な体験」とは何だろう?。 簡単に言えば、現実では起こらないようなこと、科学では説明できないような現象――たとえば、死んだ人が生き返るとか、時間が逆に流れるとか、燃えた紙が元通りになるとか……。 あるいは、幽霊を見た、UFOを目撃した、UMAに遭遇した……なんて話も、「不思議な出来事」としてよく耳にする。 でも残念ながら、自分にはそういう体験がいちどもない。 だからつい、「不思議なことなんてこの世には存在しない」と、結論づけたくなってしまう。 もちろん、誰かが「信じられない体験をした!」と熱く語っても、それを信じるのは難しい。 だって、自分はその場にいなかったのだから。 結局、信じるか信じないかは「個人の感覚」の問題に帰着する。 でも、どんなに面白くても、「それが現実に起こっている」とまでは思えない……。 やっぱり、実際に自分の目で見て、自分の身体で体験してみないと、「実在する」とは断言できないのだ。 こういう話が永遠に尽きない理由は、「いない」「ない」ということが証明できないからだろう。 「選ばれた人にしか分からない」「周波数が合えば見える」「次元が違うから見えない」……そんな説明をされたって、自分には確認のしようがない。 結局のところ、「確かにいる」「間違いなくある」と証明されない限り、「いるかもしれない」「あるかもしれない」というグレーゾーンからは抜け出せない。 だから、自分はこういう話をエンタメとして楽しむようにしている。 信じるか信じないかよりも、「楽しめるかどうか」で見た方が、ずっと建設的だと思う。 ――けれど。...

本当のペットロスとは何か?長い間共に生きた猫「みゃんこ」が教えてくれたこと

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19年間、共に過ごした「みゃんこ」を失ってしまい、心にぽっかりとみゃんこの形をした穴が空いてしまった……。 日常にあった当たり前の風景が消え、静まり返った部屋にただひとり取り残されたような感覚。 そして、どうすることもできない重度のペットロスに陥ってしまい、心が打ちひしがれていた。 過去にもペットを見送った経験はあった。 そのときも「もっと大切にしてあげればよかった」と後悔したし、「ごめんね」「ありがとう」と何度も心の中でつぶやいた。 あの頃は、それがペットロスだと思っていた。 でも、みゃんこのときは違った。 それ以上の、もっと深い喪失感……ただの後悔や哀れみでは表現しきれない、何か大切な一部を失ってしまったような、ぽっかりと心に穴が開いたような感覚に囚われていた。   思い出を振り返る みゃんこが亡くなってからというもの、「もっと美味しいものを食べさせればよかった」「もっと構ってあげればよかった」「もっと、もっと……」と後悔ばかりが頭の中を巡った。 それはこれまでに感じたペットロスと似ているようでいて、まるで違った。 ふとした瞬間に、心の奥底から感情が込み上げてきて、涙が止まらなくなる日々。 なぜ、こんなにも苦しいのか?。 なぜ、いつまでも心の穴が埋まらないのか?。 みゃんこが長生きだったから?。 一緒に過ごした時間が多かったから?。 それとも、自分が心の支えとして、深く依存していた存在だったから?……。 どれも間違いではない。 けれど、もっと、根っこの部分で、自分は何かを忘れている気がしていた。 共有していた日々 そこで、みゃんことの19年間をひとつひとつ、ゆっくりと思い返してみた。 そういえば、みゃんこを迎えて数年後、自分の母親が亡くなった。 みゃんこにとっては、毎日ごはんをくれていたい存在が、突然いなくなったのだから、不思議で仕方なかったはずだ。 その後、みゃんこの晩年に15年生きた犬も亡くなった。 みゃんことその犬は特に親しいわけではなかったけれど、一緒に散歩に出かけたり、同じ空間にいたりと、確かに日々を共有していた。 あの犬が突然いなくなったとき、みゃんこもまた、「いない」という現実をどう感じていたのだろう。 こうして振り返ってみて、ようやく気づいた。 自...

悩みは消えなくても生き方は選べる

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子供の頃、今では取るに足らないようなことで悩んだり、不安になったりしていた。 当時は「大人になればそんな悩みや不安からは解放される」と信じていた。 なぜなら、子供目線では、大人たちは悩みなんてないように見えたからだ。 だから早く大人になりたかった。 しかし、成長するにつれて、それが幻想だったと気づかされた。 大人になっても悩みや不安は尽きない。 むしろ、責任が増え、選択肢が広がることで、より深刻な悩みが次々にやってくる。 人間関係、仕事、お金、健康、家族、老後、そして死への不安……こうした問題は、少しでも気を抜けば心を押しつぶしてしまう。 だは、どうすれば悩みや不安と上手に付き合っていけるのか?……すぐに解決できない問題があるからこそ、心を守る工夫が必要だ。 悩みや不安に押しつぶされないために 小さな目標を立てる 悩みを一気に解決しようとすると、逆に圧倒されてしまう。 だからこそ、少しずつでも前進することが大切だ。 例えば、「今日ひとつだけ問題に取り組む」「一日のうちで少しだけリラックスする時間を持つ」など、小さな目標を積み重ねることで、心に余裕を持たせる。 悩みを書き出す 頭の中で悩みがぐるぐる回っていると、実際よりも大きく感じてしまうことがある。 紙に書き出すことで、問題を整理できたり、現実的な解決策が見えてきたりする。 書くだけで気持ちが軽くなることもある。 誰かに話す 悩みを一人で抱え込むと、どんどん深刻に感じてしまうことがある。 友人や家族、あるいは専門家に話すことで、他の視点からのアドバイスを得られたり、「自分だけが悩んでいるわけじゃない」と思えて気が楽になることもある。 適度な距離を持つ 悩みに向き合うことも大切だが、過剰に考えすぎると逆に心が疲れてしまう。 問題に取り組む時間と、意識的にそれを忘れる時間をバランスよく持つことが重要だ。 悩みと共存しながら生きる 悩みや不安を完全になくすことはできないかもしれない。 でも、それらに押しつぶされるのではなく、上手く付き合っていくことはできる。 人生には後悔が残ることもあるし、死の瞬間まで悩み続けることもあるかもしれない。 それでも、できる限り前を...

「わかったふり」のアドバイスが人を傷つける理由と思いやりの本質

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心というものは、人間ひとりひとりに唯一無二のものとして存在し、それぞれの内面は独自の感覚や感情の集まりである。 そして、その心の中で起きていることは、どれほど親しい間柄であっても、結局のところその人自身にしか完全には理解できない。 我々が、他人の心の状態を推し量るとき、表情や言葉、行動といった外に出てきたわずかな手がかりから想像するしかない。 そして、その想像もたいていは、自分がこれまでに経験してきた類似の感情や状況をもとに「きっとこんな感じだろう」と推測するに過ぎない。 だが、当然ながらその推測が的を射ている保証はどこにもない。 それにもかかわらず、「共感」という言葉は世の中にあふれていて、「共感できること」が善とされているような風潮すらある。 もちろん、双方が納得できるかたちで成立している共感というのは、非常に価値あるものだと思う。 しかし、問題はその「共感」に続けて、勝手なアドバイスを始める人間である。 「気持ちは分かるけどさ……」と切り出されて、こちらが求めてもいない改善策を提案されることがある。 だが、その人がかつて経験した心のダメージが30%くらいで、今まさに苦しんでいるこちらのダメージが70%だとしたら、そのアドバイスな何の役にも立たないことが多い。 心の傷の深さというものは、外からは見えにくい。 けれど、それが倍以上も違えば、回復に必要な時間も方法もまったく異なるはずだ。 それなのに、表面だけを見て「こうすればいい」と言ってくる人間は、たいてい自分の物差しでしか人を見ていない。 さらにやっかいなのは、こちらがそのアドバイスを一度試してみた結果、やっぱり効果がなかった時に、「それぐらいのことで……」という態度をとられることである。 この瞬間に、心の深い部分で傷つき、さらなる孤独や無力感に追い込まれてしまう人も少なくない。 多くの人間は、同じような体験をした人間同士ならば、同じような心の反応を示すだろうと、無意識に思い込んでいる。 しかし、性格も、受け取り方も、心の容量も、耐性も、人によってまったく違う。 同じ出来事でも「大したことない」と感じる人もいれば、「もう立ち直れない」と感じる人もいるのだ。 ...

お金が存在する理由~人間の欲求と生活を支える手段

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世の中には、お金というものが当たり前のように存在しているけど、そもそもお金とはいったい何のためにあるのか、ふと考えることがある。 そのお金の一部は税金として徴収され、社会全体を支えるために使われている。 しかし、その恩恵を直接感じたことがない人間にとっては、税金が本当に役立っているかどうか、実感しにくいようにも感じる。 それ以外で、人間ひとりひとりからみたお金というものはいったい何のためにあるんだろう……。 なんとなくだけど、人間の欲が根底にあるような気がするので探してみた。 能力を補うため お金を使うことで、自分ではできないことを他者に依頼したり、自分に不足している知識を購入することができる。 例えば、法律や会計に詳しくない人が弁護士や税理士に相談してトラブルを解決したり、専門的な技術が必要な工事をプロに頼むことが挙げられる。 自分では持っていないリソースを、お金を使うことで補い、効率的に問題を解決することができる。 また、自己投資として、知識を身につけるために本を買ったり、スキルアップのためにセミナーに参加したりすることも、お金で能力を補うひとつの方法である。 こうして得た能力が、将来的には収入や生活の向上に繋がることも期待できる。 承認欲求を満たすため お金を使って、自分の社会的な地位や成功を他人に見せつけることで、周囲からの評価や賞賛を得たいという欲求を満たすことがある。 例えば、高級車やブランド品を購入することは、その持ち主が経済的に余裕があり、成功していることを他人にアピールする手段になる。 周囲から「凄い」「羨ましい」と思われることで、自分の存在価値や成功を実感し、承認欲求が満たされる。 また、高級レストランやリゾート地に行くことや、最新のガジェットを手に入れることも同様に、自分のライフスタイルを他者に見せつけるための手段に成り得る。 SNSにこれらの経験を投稿することで、フォロワーからの「いいね」やコメントがもらえ、さらに自分の価値を感じることができる。 しかし、こうした行為にはリスクもある。 過度に他者の承認を求めてお金を使い続けると、他人の評価に依存し、経済的な負担が大きくなる可能性もある。 また、周囲から嫉妬や批判を受け、人間関係が悪化するすることもある。 欲を...

自分の物差しで他人を測ってはいけない

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物差しとは定規のことを指すが、ここで言う物差しとは人間ひとりひとりの価値観のことを指している。 人間ひとりひとりの物差しは違うはずなのに、なぜか、自分の物差しで他人を測ってしまっているし、他人の物差しで自分が測られているときもある。 都合良く、自分が思っているように相手が思っている、自分が感じているように相手も感じている、自分が考えているように相手も考えている、と思い込んでしまっている。 逆に他人がそう思っているときもある……。 そして、人間関係がうまくいかないときってのは双方とも相手を自分の物差しで測ってしまっているから、というのもあると思う。 たとえば、同じ会社で仕事も給料も同じでも、やりがいを感じて楽しく仕事をしている人間と愚痴ばかり言ってつまらなく仕事をしている人間がいたとする。 片方はこんなに楽しい仕事なのになんで愚痴ばかり言ってるんだと思うし、片方はこんなつまらない仕事になんでやりがいなんて感じてんだと思っているかもしれない。 どちらも自らの物差しが正解だと思っているので職場の人間関係はおのずと悪化する。 どこの職場でもよくある光景だけど……。 双方とも相手がどんな物差しなのかを理解するようにすれば、人間関係はおのずと良好になるのに、職場ではチョット難しい。 なので、なるべく自分と他人の物差しは違うんだ、と意識するようにはしている。 自分が理解できる物差しの持ち主とは良好な人間関係を築き、自分が理解できない物差しの持ち主とは距離をとる。 理解できそうもないと感じたら無理して理解しようとしない、疲弊するだけだから。 そして、否定もしてはいけない、物差し=価値観を否定してしまうと、その人間そのものを否定してしまうことに繋がってしまう。 人間関係はもちろん最悪になってしまう。 なので、そういう人間も世の中にはいる、程度でいいと思う。 本気になって批判したとしても何がどうなるわけでもない。 そうやってめんどくさい人間関係の負荷を減らしていく。 そうすれば人間関係の悩みも少しは減少するかもしれない……。 イラスト acworks 投稿:2022.2.15 火曜日

時間は無情にも過ぎていく

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自らに与えられた時間は、この世に生まれたその瞬間から始まり、そして死ぬまでずっと続いていく。 今思うと、子どもの頃って1日がものすごく長かったんじゃないかな……。 夏休みなんて、永遠に続くんじゃないかってくらい長く感じてたような気がする。 でも、大人になってからはどうだろう。 気づいたらもう年末、もう誕生日、もう新年度。 そんなふうに、あっという間に時間が過ぎていく。 なんでだろうと思ってたけど、たぶん年齢を重ねるごとに、感じる時間のスピードってどんどん速くなっていくんだと思う。 新しい体験が少なくなればなるほど、記憶に残ることも減るし、「ただ通り過ぎていくだけ」の日々が増えてしまうのではないのだろうか。 楽しいことって、本当に一瞬で過ぎ去ってしまう。 旅行に行っても、ライブに行っても、好きな人と会っていても、「え、もう終わり?」ってなる。 逆に、嫌なことって不思議なくらい直ぐにやってくるし、しんどいときほど時間が長く感じてしまう。 でも、どちらにせよ、それすらもいつの間にか過去になっていて、思い出に変わっていく。 「時間ってなんなんだろう」って、昔は真剣に考えてた時期もあった。 けど、そういう哲学的な問いに答えを求めて悩んでいる時間こそ、ある意味一番の無駄だったのかもしれない。 だって、どんなに考えたって、どんなに逆らおうとしたって、時間は止まってくれない。 待ってくれないし、巻き戻してもくれない。 悲しかろうが、嬉しかろうが、お構いなしに前に進んでいく。 時間は、本当に無情だ。 もしタイムマシンがあったらどうだろう。 きっと多くの人が未来に行って、宝くじの番号や株価の動きを調べて、それを今に持ち帰って「勝ち組」になろうとするんじゃないかな。 過去に戻っては、あのときの失敗を回避して、人生をやり直そうとする。 でも、それって全部、「今の自分をよく見せたい」「失敗したくない」「楽して成果を得たい」っていう、欲望のかたまりだと思う。 未来に行っては欲を満たし、過去に戻ってはやり直す──そうやって、どんどん自分の人生を"操作"するようになっていく。 そして、たぶんそのうち気づく。「自分は人生を変えてきたつもりでいたけれど、自分自身は何ひとつ変わっていなかった」と。 どれだけ外側の状況を理想的に整えても、自分の中の不満や焦りが...

温かだったみゃんこ

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真冬の寒い夜……。 風の音と遠くで木の枝が何かに擦れる音が重なり合い、外は凍えるくらい寒いというのは部屋の中からでも感じ取れる。 そんなとき、遠くから鳴き声が聞こえてきた。 その鳴き声はだんだん大きくなってくる、鳴きながら移動しているらしい。 鳴き声の主は我が家のみゃんこである。 まったく……こんな真夜中までいったいどこをほっつきあるいていたのか……。 何処かに遊びにいくといつもこんな感じで帰ってきていたのを思い出す。 みゃんこが二階の窓から自由に行き来できるように鍵は掛けないようにしていた。 閉まっている窓を前足で開けることができたので、入るときも出ていくときもみゃんこの自由のはずだったが、遠くから鳴きながら帰って来るときは何故か窓の前にいて、自ら窓を開けて入ってはこなかった。 窓のそばにいるのは分かっているので呼んでみても、ささやくように鳴くばかりでいっこうに部屋に入ってこない。 寒いので眠りにつこうとしていた時とかはベッドから起き上がってまで窓に行くのはめんどくさかった。 いつまでも鳴いているからしょうがないのでベッドから起き上がり、窓を少し開けてあげる、それでも部屋に入ってこないで鳴いている。 「ほらっ、寒いから早く」と声を掛けると何故か申し訳なさそうに部屋に入ってきた。 寒いので窓を閉めてベッドに戻る。 それからみゃんこは毛繕いモードに突入する。 しばらく経つとベッドの横で温かい布団の中に入りたいと鳴き始める。 勝手に布団の中に入ってこればいいのに、なかなか入ってこないで鳴くばかり。 しょうがないのでまた「ほらっ、寒いから早く」と声を掛けるとやっと布団の中にもぐりこんできた。 最初は冷え切った体が冷たいと感じるが、すぐに温かくなる。 そして、双方があったかポッカ状態になる。 今思うと、その時が最高に幸福なときだったと感じる。 あの温かさが掛け替えのない命、そのものだった……。 同じような真冬の寒い夜に、風の音と遠くで木の枝が何かに擦れ、重なり合う音が聞こえてくると、そのことを思い出してしまい、とてつもなく寂しくなる。 でも、当時のことを思い出すと心は何故か温かくなる。 この世にいなく...