自己意識とは何か?~存在すること自体が不思議だった話
これまでの人生の中で、自分は「何か不思議な体験をしたことがあるのか?」……ふと、そんなことを考えてみた。
でも正直なところ、「これぞ不思議!」と呼べる出来事には、いちども遭遇したことがない。
たとえば、買い物に行って、目当てのものを買ったつもりが、家に帰って袋を開けたら全然違うものが入っていた――。
こういうのは「不思議」でもなんでもない。
ただの思い込み、勘違い、記憶違いだ。
人間の記憶や注意力なんて、案外いい加減なもの。
だからこういう小さなズレは、誰にでも起こり得る、ごく日常のひとコマでしかない。
じゃあ、「不思議な体験」とは何だろう?。
簡単に言えば、現実では起こらないようなこと、科学では説明できないような現象――たとえば、死んだ人が生き返るとか、時間が逆に流れるとか、燃えた紙が元通りになるとか……。
あるいは、幽霊を見た、UFOを目撃した、UMAに遭遇した……なんて話も、「不思議な出来事」としてよく耳にする。
でも残念ながら、自分にはそういう体験がいちどもない。
だからつい、「不思議なことなんてこの世には存在しない」と、結論づけたくなってしまう。
もちろん、誰かが「信じられない体験をした!」と熱く語っても、それを信じるのは難しい。
だって、自分はその場にいなかったのだから。
結局、信じるか信じないかは「個人の感覚」の問題に帰着する。
でも、どんなに面白くても、「それが現実に起こっている」とまでは思えない……。
やっぱり、実際に自分の目で見て、自分の身体で体験してみないと、「実在する」とは断言できないのだ。
こういう話が永遠に尽きない理由は、「いない」「ない」ということが証明できないからだろう。
「選ばれた人にしか分からない」「周波数が合えば見える」「次元が違うから見えない」……そんな説明をされたって、自分には確認のしようがない。
結局のところ、「確かにいる」「間違いなくある」と証明されない限り、「いるかもしれない」「あるかもしれない」というグレーゾーンからは抜け出せない。
だから、自分はこういう話をエンタメとして楽しむようにしている。
信じるか信じないかよりも、「楽しめるかどうか」で見た方が、ずっと建設的だと思う。
――けれど。
本当に不思議なことがあるとすれば、それは「自分が今、この世界に存在している」という事実そのものかもしれない。
夜、ベッドに横になり、眠ろうとするその時――ふと、そんな考えにとらわれることがある。
世の中にはいろんな不思議がある。
でも、そのどれよりも不可解なのは、「なぜ自分が今、こうして自分として存在しているのか?」という問いだ。
なぜ自分は、他の誰かではなく”この自分”なのか?……。
なぜ、未来でも過去でもなく、「いま」というこの瞬間に生きているのか?……。
生まれる前、自分は何だったのか? ――無だったのか?……。
死んだらどうなるのか? ―― また無に戻るのか、それとも何か別の存在になるのか?……。
……こういった問いに向き合い始めると、自分の存在そのものが、不思議でたまらなく思えてくる。
眠れない夜の原因は、案外こういう「考えすぎ」にあるのかもしれない。
哲学書を手に取ってみても、答えが書かれているわけじゃない。
むしろ、読めば読むほど問いは深く、抽象的になっていく。
それなら、考え続けるしかない。
なぜ自分は自分なのか?――たぶん、その答えは「自己意識」があるからなんだと思う。
人間の脳が発達するにつれて、本能、感情、理性が現れ、そして最後に「自己意識」が芽生える。
それが、「自分は自分である」と認識できる理由。
他の動物にも脳はあるけれど、「自分を自分として認識する」意識があるかどうかは正直わからない。
だからこそ、この自己意識は、人間だけが持つ特別なものなのかもしれない。
しかも、その自己意識は、人それぞれ違う。
コピーできない、世界でたったひとつのもの。
つまり、人間が本当に理解できるのは、自分自身だけなのかもしれない。
そしてこの自己意識は、脳が活働している間だけのもの。
脳の働きが止まれば、思考も記憶も感情も、すべてが消えてしまう。
「死んだら終わり」という言葉に、なんとなく納得してしまうのも、そういう感覚があるからだろう。
いま生きている自分は、「いま、ここ」にしか存在しない。
そして、「自分が自分である」というこの感覚は、他の何にも代えがたい、かけがえのない体験だ。
この「唯一無二の存在」が、眠った先でどうなるのかは分からない。
それでも、自分は確かに「いまここにいる」。
それは、ある意味で人生で一度きりの「不思議な体験」なのかもしれない。
――うとうとしながらも、そんなことをぼんやり考えているうちに、いつの間にか眠りについていた。
イラスト:ちょこぴよ
投稿:2022.4.15 金曜日